[本の小並感 160]教誨師 「あの女のせいだ!」 必死の形相を白布が覆った。

読書

テレビに釘付けになる

テレビに釘付けになり、その前から動けなかったことがある。ETV特集、「永山則夫 100時間の告白」~封印された精神鑑定の真実~である。

死刑囚である永山の心に精神科医が迫ろうとするドキュメンタリーな訳だが、とにかく永山の人生が壮絶で、とても「貧困」などという単語で表せるような境遇ではない。文字通り釘付けにさせられた。

このドキュメンタリーには、おそらく並行して取材したのだろう、永山則夫 封印された鑑定記録という本があり、この本もとても良かったのだが、今回読んだ教誨師は、この本と同じ著者なのである。ずっと読もうと思っていたが放置してしまっていた。

教誨師の挫折

教誨とは「収容者を訓し導き善に立ち返らせること」であり、本書の僧侶は半世紀に渡って死刑囚と面談し続ける。

死刑囚自身の心の奥底に燃え続ける恨みの炎を消さないことには、平穏はやってこない。自分が被害者であり続ける限り、自ら手にかけた被害者に思いを馳せることなど出来るはずもない。

そんな心の状態に「処刑」という形でしかピリオドを打つことが出来ないのだとしたら、あまりに不憫だ。せめて誰を恨むことなく静かな心境で逝かせたい、渡邊は心からそう願った。

しかし、この渡邊の思いは真っ向から裏切られることになる。

娑婆の縁尽きて 横田和夫の最後

横田和夫は強盗殺人で死刑判決を受ける。

横田は4歳の時に父が戦死し、母は実家と折り合いが悪く8歳の横田を残して満州に渡ってしまう。母は自分を捨てたのではない。一時的に出かけたのだ。いつか必ず母が迎えに来てくれる、そんな思いから窃盗を繰り返す荒んだ少年時代。そして、強盗殺人もまた母親への当て付けだった。

渡邊は何とかこの横田に自身の罪を受け止めてもらい、母を赦し、穏やかに旅立って欲しいと面接を重ねる。しかし、

この期に及んでの横田の絶叫は、一五歳から心の成長を止めている彼の内なる子どもの叫び声のように渡邊には響いた。執行される間際、母がすぐ目の前のドアを破って駆けつけてくれるかもしれないという一縷の望み。その望みはまたも大きな絶望だけをもたらした。

「お母さん、お母さん!」

横田は声にならない声で、届くあてもない名を叫び続けている(中略)。渡邊は、そこに呆然と立ち尽くしていた。命あるうちは決して止むことのないであろう横田の叫びに打ちのめされていた。

「あの女のせいだ!」

必死の形相を白布が覆った。

人は人を救えるのか

この出来事などもあり、渡邊は自身の教えに自信を失っていく。

目の前で起こり続ける苦しみと悲しみの連鎖に「浄土」への信心だけで立ち向かうのは容易ではない。(中略)

死刑囚が生きているうちに、彼らを救うのが不可能であるというのならば、自分は教誨師として具体的に何をすべきなのか。深まる渡邊の疑問に親鸞は明確な答えを用意してくれてはいなかった。

はたして、人は人を救済することはできるのか。

悩みんだ末に、渡邊は一つの結論を得る。

死を突きつけられた人間に対して他人がそう簡単に「救い」など与えられるものではない、その現実を渡邊はようやく受け入れたのだ。

ただ相手の話に真摯に耳を傾け、「聞く」。少しでも穏やかな時間を作る。偏見を持たず、一人の人間として向き合い、会話を重ね、時を重ね、同じ空間に寄り添う。出来ることは、それだけ。教誨師としてそれが本当に正しい答えなのかどうか、正直今でも分からないと渡邊は言う。しかし、それ以上のことが出来ないと言うこともまた渡邊には痛いほどわかっていた。

「考えてみると、大した仕事じゃないね。」そう言って渡邊は笑った。

そのとき、抱きとめてくれる人はいますか?

永山則夫の本でも、この問い、つまり「人はどうすれば救済されるのか?」というテーマであると思う。

永山は精神科医との対話を通して自身を見つめ、救済されたと言っていいだろう。精神鑑定を終えた永山の写真があるが、その表情を見ればそれは明らかだと思う。これは精神科医が永山を救った訳ではない。あくまでも永山自身が自らを見つめた結果だろうが、しかし、その精神科医との対話がなければ、辿り着けずに刑の執行を迎えただろうこともまた確かなのだ。

「そのとき、抱きとめてくれる人はいますか?」とは、北野武のHANA-BIのキャッチコピーである。渡邊は、そんな人になろうとしたのかも知れない。

正直、前半は退屈だった。しかし、死刑囚の最後のシーンが続く第5章辺りは、食い入るように読み進んだ。良かった。

 

 

 

 

 

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