受動的な被害者・主体的な加害者
リラの花咲くけものみちは、カラッとしてて分かり易いのがいいですね。特に、主人公が、受動的な被害者ではなく、主体的な加害者なのが印象的でした。
仔馬の出産に立ち会って、母馬を救うために仔馬をチェーンソーで切断する場面がありますが、この出来事で主人公は獣医になることを諦め実家に帰ります。それは残酷な現象以上に、母馬を生かすという主体的な意思決定が、仔馬を殺すというはっきりした加害の形で現れ、その結果責任を自分が負わなければならないという重圧に耐えられなかったとからでしょう。
しかし、実家に帰った主人公は、母親が心臓に病気を抱える自分自身を危険にさらしながら、自分を生んでくれたという事実を知ります。馬の出産とは逆の選択をしているんですね。実家に帰った当初の主人公は、獣医になることを諦めれば、祖母も経済的に助かるといった理由で、大学を止めること考えるわけですが、それは実は言い訳であり、自己決定・自己責任の重みからの逃避であることを自覚して大学に戻る決意をします。この辺りの、主人公の考え方の変化とそのきっかけとなる出来事がすごく自然に感じました。
受動的な被害者を描く作品もありますが、主体的な加害者であることから逃げない姿勢は、こうありたいなと思わせるものがありました。
共感形読書へのハードル
一方で、この本をずっと手元に置いておこうと思いませんでした。さらっと流れて、爪痕を残すということがない。一言で言うと「綺麗すぎる」といった感じでしょうか。
母親は強し、父親や後妻はひどいし、祖母は優しく厳しいし、先輩は大人だし、クラスメートは刺激をくれるし、実習先の獣医師や牧場主は温かいし、ペットの飼い主は自分勝手だし、男は紳士だし、動物や気高く高貴です。みんな、正しいし、健康だし、理解できるし、前向きだし、良識ある大人が思い描く理想像のような世界です。
解釈を巡って論争が起きたり、主人公の決定に賛否両論が飛び交ったり、良識ある大人が眉を顰め、自分の子供には見せたくない・こうなって欲しくないと願ったり、差別や偏見の助長と表現の自由のバランスでSNSが炎上しり、そう言った要素が一切ない。無菌室で培養されたような、綺麗だけど、毒にも薬にもならない、そんな印象を受けました。
受動的な被害者ではなく、主体的な加害者でありたい、という思いはありますが、そうあろうとすると必然的に、惨めで無様でキモくてイタい、主体的な意思決定は、ある程度そういう姿になることは避けられないのでは?という気がします。
社会評論家である芹沢俊介は「自分が選んだのではないという受動性がイノセンスであり、虐待や暴力もイノセンスによって正当化される。」という趣旨のことを述べていますが、主体的に選択したということが「成熟」であるなら、それはこの作品が描くような洗練された姿ではなく、むしろ、もっとキモくてイタいことかも知れません。
まとめ
まとめると
- 「受動的な被害者」ではなく「主体的な加害者」であることから逃げていない
- 無菌室で培養されたような味気無さ
- 「成熟」は、キモくてイタいのかも知れない
本日は以上です。また、次の読書でお会いしましょう。
メモ
主人公の健全な成長物語という意味では、例えば、山岸涼子のテレプシコーラが思い浮かぶ。どちらも、やや弱い主人公が周囲に支えられながら成長するという構図は似ているが、テレプシコーラが読者の心に残す傷跡の深さは、『リラ・・・』とは比較にならない。「主体的な意思決定は、必然的にきもくていたい」例には何かあるだろうか。


コメント