今回は、鈴木涼美さんの『悪い血』について、4つの疑問を考えていきたいと思います。
- なぜ血を取り戻そうとしたのか
- 何が悪いのか。夜職か
- 過去中絶したがなぜ今回は迷っているのか
- なぜ血を取り戻さなくていいと思ったのか
なぜ血を取り戻そうとしたのか
これまでの過去を断罪されるのが怖かったから、ですかね。主人公の茜は、中学時代から中年男性などを脅して金を巻き上げ、高校を中退し、以降一度被ってしまった不良少女という仮面を外せないまま、40手前の今まで、いわゆる夜職を輾転としてきた過去があります。そして、そのことをまともとは思っておらず、むしろ褒められたことではないという自覚があるにも関わらず、対して社会的な制裁にさらされていないことに罪悪感を抱えています。罪はあるけど罰がない、という状態ですね。血を検査されるということは、これまでの過去が白日の下にさらされ、判決が下され、その結果何かしらの罰が下るということを恐れたから、ではないでしょうか。そして、この場合、血液検査を拒否するということは、イコール中絶する、ということかと思います。
何が悪いのか。夜職か
では、茜の過去の何が悪いのでしょうか?夜職でしょうか?そうではなく、むしろ自分で選択を避けてきた過去、と言えそうです。
私がこれまで何も選ばずにいようとしていたのは、選んだ瞬間に過去を罰せられる気がして怖かったからだ。その選択をする資格はお前にはないのだとはっきりいわれるその残酷さに対峙するのであれば、はなから何も選ぼうとせず、望まず願わず、舞い込んできたものだけを処理していたほうがよかった。
(p.53)
同じような指摘を麻子からも受けます。
「あんたが何となく変化に臆病なのはただの性格だよ。責任と失うものの大きい人生をできれば避けたいってのはわかるけど。私もそうだし。要は自業自得って責められるのが嫌なんでしょう、他人にも、自分にも。でも妊娠してるなら、おろさなきゃそのまま育つよ。」
(p.120)
自分で選んだのではなければ、その結果に責任を負う必要もないわけです。「仕方がなかった」訳ですから。しかし、そういった生き方が妊娠によって継続か終焉かを突きつけられます。
過去中絶したがなぜ今回は迷っているのか
しかし、茜は過去、妊娠したことがあります。そして、その時は、特に選択するという意識もないまま中絶しています。今回は、なぜ中絶することに躊躇しているのでしょうか。理由はいくつかあります(P22、P66)。
- 40手前になって最期の機会だということ
- 彼氏を巻き込むことが気まずいこと
- 孤独を埋めたいこと
- 自分の身体の価値を確認したいこと
これらの全てを茜は「あさましい」などの理由で否定的に捉えています。茜の真面目さがよく表れていますよね。
なぜ血を取り戻さなくていいと思ったのか
茜は、自分の血を取り戻すという目的をあきらめます。これまでずっと下っていた階段を上ることになります(p.98)が、その前に思い出していたのは疎遠だった父親でした。彼は、現実の結果を個人の責任に帰すことを否定しています。「勉強が苦手な子供が豊かに生きられなら、それは社会の方が間違っている」とか、「罰せられていると思うな」とかですね。
私がほとんど私だけに向けている怒りは、少なくともあの日、制服を着ていた私にとっては必ずしも自分だけに向けるべきものではなかった。私と同じくらいに世界も酷かった。ただ私は長らくそう口にする資格がないと思っていた。でも子どもを持つことは、もしかしたらそれを言う必要にかられることなんじゃないだろうか。
(p.112)
これが、一番大きな転換点で、それまで過去の全てを自己責任として受け止めようとする生真面目といっていいような姿勢が、社会にもその一端があるという意識に変化しています。
『悪い血』は、「自己決定を避けてきた元夜職が、おそらく最後になるであろう妊娠を機に自分の過去を自己責任として受け止めようとする話」と言えるかと思いますが、「なぜ血を取り戻さなくていいと思ったのか」という質問への答えは、過去のすべてを自己責任として背負う必要はない、ということになろうかと思います。
まとめるとこんな感じになります。
- なぜ血を取り戻そうとしたのか → 悪い血を断罪されたくないから
- 何が悪いのか。夜職か → 自己決定を放棄した過去。夜職は要素の一つ
- 過去中絶したがなぜ今回は迷っているのか → 40前、彼氏巻き添え、孤独、自分の価値
- なぜ血を取り戻さなくていいと思ったのか → 全てを自己責任として受け入れる必要はない
感想
時代に突きつける切実な「問い」があるか?といえば、あるように思う。夜職がカジュアル化しているという指摘がありますが、その多くはもしかしたら、茜のように、一度かぶった仮面を外そうにも外せず、なんとなく夜職を始めて、なんとなく継続しているという女性は、意外に多いのかも知れません。
そして、それは夜職はせずとも、何となく勉強して、なんとなく就職して、なんとなく生きてきた結果への責任が、30後半という年代になって顕在化してくるという風に捉えると、「問い」の射程は広く深いように思います。
一方で、茜が階段を上がった理由である、「全てを自己責任として受け止める必要なない」という考えは、無条件には肯定しがたいものがあります。「社会が間違っている」と言えるのは、逆説的ですが自分の人生に自分以外の誰が結果責任を負えるのか、という意識があってこそ説得力をもつのではないでしょうか。そうでなければ、社会に寄生しているという誹りを免れないように思います。
「問い」はよいのですが、「答え」はもう少し何かなかったのか?という気がしました。芥川賞の受賞はなりませんでしたが、その他の著書も読んでみたいと思いました。本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。


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