こんにちは
「氷河期世代のタクシードライバー」という紹介ポストを見て、中村文則さんの『銃』を読んでみました。これを読んだ方の中には、主人公のような、ある意味「可能性の塊」のような人物が、拳銃を拾うという選択をすることに、違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか?今回は、なぜ拾ったのか?という疑問に私なりに考えてみたいと思います。
これは氷河期世代の『タクシー・ドライバー』である!退屈な日常に拳銃という可能性が現れる。しかし、可能性を可能性のまま取っておき、自分の悦に使う。文体は重く、主人公のどす黒く哀しみに似た怒りが、素晴らしい表現で達成されている。作者はデビュー作から文体を確立していた。#読書のよろこび pic.twitter.com/WmqcVjoHnW
— 白石純太郎 JUNTARO SHIRAISHI (@kowalskitravis) June 21, 2026
なぜ拾ったのか
「持っている」主人公
主人公は、都内の大学生です。酒を飲む友人が多くいて、タバコを吸いまくりますが、バイトしているような記述がないので、おそらく金には困っていません。特定の彼女がいるわけではないのですが、ナンパして彼氏持ちの女性をセフレにするクズ男ムーブもかましています。母親から電話がかかってきたり、お小遣いをもらったりする記載があるので、両親からも愛されていると言えると思います。
要は、両親に愛されて育ち、金銭的にも余裕があり、友人に恵まれ、コミュ力があり、若く、女性関係にも困っていないという、側から見るとすごく恵まれた立場にあるわけです。おそらくですが頭も容姿も悪くない、少なくとも平均以上なのではと思います。そんな主人公が、ある日拳銃を拾い、人を殺すという目的のためだけに作られた、この道具に魅了され徐々に精神を乗っ取られていくというストーリーです。
令和の現代から、この主人公の造形を見ると、「持ってるな」と感じた方も多いのではないでしょうか?私はそうでした。特に文学は「持たざる者」を描くことが多いので、尚更違和感があるわけです。
なぜ拾ったのか?2000年という時代
本題の「なぜ拾ったか」を理解するには、この小説が書かれた2000年という時代背景を理解する必要があると思います。
2000年に書かれた村上龍の『希望の国のエクソダス』という小説には、「この国にはなんでもある。本当にいろいろなものがあります。でも、希望だけがない。」。という名言があります。2002年の作品である『銃』の主人公も、なんでも持っています。しかし、希望だけがない。
私の中では、リアルさとはいつも退屈さを意味した。(中略)私はまた改めて、拳銃を眺めた。そこには私を失望させない、圧倒的な美しさと、存在感があった。それは私をきっとどこかへと移動させる、つまり私の内封された世界を開かせる、そんな可能性に満ちているように思えた。
日常は退屈であり、失望しているし、美しくないし、存在感もない。私は世界に向けて閉じている。平坦な日常が緩やかな死に続いている。それが2000年当時の若者が置かれた状況であり、その閉じられた日常から私を解放する「希望」として拳銃を拾うわけです。
それは可能性とか未来とか言い換えてもいいわけですが、拳銃はまさにそれなわけです。だから、主人公は拳銃を拾うし、磨くし、身に付けるし、警察に届けたり捨てたりはしないわけです。希望ですから。
この辺りは、令和の現代とは結構違うなという印象を受けます。現在では、この主人公のような「退屈な普通」というは、もはや贅沢品とはまで行かないまでも、当たり前のものではなく苦労して獲得するもの、一部の人には得難いものになっているように思います。
なぜ撃たなかったのか
なぜ撃たなかったのか?は、その後に主人公の生活に訪れた変化を見るとわかります。女性を撃たなかった後、些細なことに喜ぶようになったり、それまで気にしていた自分を捨てた父親の遺伝を気にならなくなり、ジムに通ったり勉強に真面目に取り組んだりという変化が訪れます。
- 些細なことに喜ぶようになる
- 友達付き合いがよくなる
- 女性に興味が薄れる
- 遺伝がどうでもよくなる
- ジムに行き運動をする
- 大学のレポートを書く
それまでの、退屈でリアルさを欠いた日常が、拳銃という非日常の存在によって、その豊さを再発見する物語といえるかと思います。
感想
令和から見た境遇
ここからは私の感想なのですが、2つの点で違和感が拭えませんでした。
一つ目は、先ほどお伝えした主人公の置かれた境遇が、令和的には非常に贅沢なものに思えた、というところです。これは、時代の流れとも言えますが、私自身が歳をとったということもあるので、作品云々というより私の問題かと思います。
また、氷河期世代ということも考慮する必要があると思います。氷河期世代とは、「1993年から2005年に大学や高校等を卒業し就職活動を行った世代」をいうので、主人公はまさにそうなわけです。現在と違って人手不足ということはなく、正社員としての道は狭く厳しく、そこに乗れなかった人間は、一生非正規という立場がほぼ確定してしまう。そういった理不尽な現状に風穴を開ける希望であるわけです。
このような当時の状況を考慮する必要があるとは思うのですが、素直な感想として、恵まれてるんじゃない?というのはありました。
破壊の対象が他者に向かう
もう一つは、破壊の対象が他者に向かうという点です。この作品では、児童虐待が疑われる女性に向くわけです。
ですが、私は破壊の対象が他者ではなく自己に向かう方が好みなのかもしれません。具体的には、自殺を考えるようなそういう作品ですね。つげ義春とか三島由紀夫の金閣寺とかです。金閣寺は、自殺せず金閣寺を燃やすという破壊の対象を他者に向けるわけですが、自殺を考えるシーンはあります。一方、『銃』の主人公は自殺を考えるような記述はなかったと思います。
これは、破壊の対象というよりも、むしろ自身の置かれた境遇や現実を自己の責任として受け止める覚悟の話です。銃で言えば希望がないと言われる社会的な状況や父親の遺伝子とかそういうものですが、その原因を他者に求めるか、自己に求めるかという違いかと思います。その原因を他者に求めれば破壊の対象も他者に向き、自己に求めれば自己に向きます。他者決定・他者責任より、自己決定・自己責任として受け止めたい。その時、『銃』の主人公の出した答えは、違和感のあるものでした。
日常を再発見する、非日常の可能性
あと、シンプルに銃が欲しいなと思いました。それは、もちろん実際の銃ではなく、現実を一発で終わらせるような可能性ですね。あまり具体的に書くとよくないと思うので控えますが、そう言った具体的な物体を手元に置いておきたいと感じました。もちろんそれは破壊のためではなく、銃の主人公がそうだったように、日常を再発見するためのものとして、ですが。
まとめ
まとめると
- 主人公は、現実に緩やかに絶望しており、銃は、その日常を打開する「希望」である。銃という非日常によって、日常を再発見する物語といえる
- 主人公の置かれた境遇は、当時の時代状況を考慮しても、令和的にはやや贅沢なものに思える
- 破壊の対象が自己ではなく他者に向かうことは、自身の置かれた境遇や現実を自己の責任として受け止めるという覚悟がない(?)
と言った感じでしょうか。
本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。
メモ
冒頭のポストで引き合いに出されていた、『タクシードライバー』という映画も見てみました。こちらは、主人公はベトナムの帰還兵で、おそらくPTSDの影響で不眠が続き、多少友人らしい友人はいるのですが、家族とは疎遠で女性には振られ、学歴もなくコンプレックスを抱えています。最終的に、少女を売春させていた反社関係者を射殺して、自身も重傷を負うが、少女の家族などからは感謝されるというストーリーです。
『銃』よりも、主人公の置かれた環境は過酷な分、心情的に理解しやすいのですが、どちらの作品も破壊の対象が「他者」に向かうんですよね。『銃』では、幼児虐待が疑われる女に銃口を向け(結局打ちませんが)、電車内で迷惑行為をしていた男性を射殺します。『タクシードライバー』も、大統領候補を狙った後、少女を売春させていた反社関係者を射殺します。
これは、自身の環境が他者に求めている結果かと思います。『タクシードライバー』の場合は、ベトナムという複雑な事情があったのでそれも仕方がない部分があると思うのですが、『銃』の場合は、単純に「なんであんなことするの?」という疑問を払拭できませんでした。自分の置かれた環境の原因を他者に求める、という姿勢以前に、そもそも、恨むような環境ではない、むしろ恵まれた環境であるわけです。
そんな主人公に拳銃が必要でしょうか?拳銃は、人生詰んだ陰キャにこそ相応しいと思うが?
「そうじゃない」ケースを書いているわけですが、この主人公の造形を考えると、拳銃に魅了され、社会的なレールを踏み外していく過程に、あまり説得力を感じませんでした。「そうはならんやろ」って感じですね。
普通の人は拾いません。警察に連絡したり、見て見ぬ振りをして通り過ぎたりするくらいでしょう。特に、主人公は非常に恵まれた立場にあることを考えると、わざわざ自分を破滅させるような行動は取りません。


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