自己責任は社会が作り出す虚像か、全てを引き受ける覚悟か(自己決定の落とし穴、石田光規)

読書

積読チャンネルは、素材の良さを120%引き出す料理人

こんにちは

みなさん、積読チャンネルはご覧になっているでしょうか。今回ご紹介する『自己決定の落とし穴』は、積読チャンネルで紹介されていて読んでみました。

読んだ感想は、「積読チャンネル、おもしろい」です。本よりもこちらの動画の方がおもしろいんですね。嘘をついているとか誇張しているとかはなく、本当に素材の良さを120%引き出す料理人のような印象を受けました。

雑な内容まとめ

ですので、内容を知りたい方は、概要欄にリンクを張っておきますので、ぜひご覧になっていただきたいのですが、一応乱暴にまとめるとこんな感じです。

「経済的に豊かになり、自分のことを自分で決められる機会が増えた。しかし、自己決定の範囲が拡大することは、一見いいことのようにも見えるが様々な弊害ももたらしている。その一つが自己責任論である。自己決定といっても実際には、様々な制約条件のもとでなされることがほとんどであり、結果を全て個人の責任に帰結させることは適切ではない。そもそも、責任とは社会秩序を維持するために強者が作り出す虚構であり、格差の固定化や孤立を招く側面もある。現在盲目的によしとされている自己決定・自己責任について、一度立ち止まって考える必要があるのではないか」

といった感じです。ご意見はあろうかと思いますが、私は読んでいて大きな違和感はありませんでした。かといって強く賛同するというより、「それはそう」という感じで、課題意識のずれを強く感じました。

課題意識のズレ ー自己責任は社会が作り出す虚像か、全てを引き受ける覚悟かー

本を読み終わったあと、もう一度動画を見返してみたのですが、やっぱり動画は面白いんですよね。ただ私の課題意識とはズレており、そのズレが動画より本で鮮明になったように感じました。

私の課題意識は、誰かに決めて欲しい・仕方がないという、「幸福な奴隷マインド」からの脱却であり、それはこの本が指摘する社会の構造や風潮とは無関係なところに存在するわけです。

幸福な奴隷というのは、自由や責任を放棄し、支配者やシステムに依存して思考停止のまま安楽な状態に浸る人間のことをいいます。私はよく「仕事クビにならないかな」とか思うのですが、辞めたければ自分で辞めればいいわけです。でも、自己決定して辞めたら、その結果に責任を負わなければなりません。それが怖いんですよね。

社会評論家である芹沢俊介氏は「自分が選んだのではないという受動性がイノセンスである」という趣旨のことを述べていますが、そうであるなら「成熟」とは、自己決定と、その結果を全て自己責任として受け入れる「覚悟」のことと言えます。

この本で示されている自己決定の弊害は、社会的な構造や風潮としては「それはそう」なのですが、それとはまったく別の次元で、生まれ育った環境も、自頭の良さも、容姿も、社会制度も、運も、全ての結果を自己責任として受け入れ、「成熟」するにはどうすればいいのか、悩みが尽きません。

本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。

補足1 おやすみプンプン

『おやすみプンプン』では、

プンプンが一人で暮らすっていった時、・・・正直おじさん痺れたよ。正直おちんちんが捻じれあがった。プンプンが決めたことなら僕は何も言わないさ。・・・たとえ、君が引きこもろうが殺人犯になろうが知ったこっちゃない。ただもしーーーーただもし君がそれを他人や環境のせいにしたらーーー僕ァ、貴様を日本刀でたたっ切る!!・・・いいか!?よく聞け、この豚野郎!!人生なんてびっくりするほどフリーダムなのさ!!けど自由には責任があるってことを忘れちゃいけないのさ、ボーイ。(中略)

プンプン・・・考えるんだ。そして悩め!!そうやって自分の意志で選択するんだ。たとえ何もわからなかったとしても、わかろうと前に進んでいる限り、かろうじて自分は自分でいられるんだ。この退屈な日常も、くだらない景色も、作り変えられるのは、自分だけなんだ!!だからプンプン・・・君が君でいる限り・・・この世界は、君のものだ。

補足2 村上龍

私が村上龍の『69』や『エクスタシー』といった作品に惹かれるのは、この幸福な奴隷からの脱却というテーマ性が色濃いからです。

30分後に男はガタガタと震えだしわたしはサディスティックに振る舞う良い機会だとも考えたができなかった、男はそういうときも決してマゾヒストにはならなかっただろう、マゾヒストは楽だ、衣服と運動と名前と意味を捨てて赤ん坊のように、奴隷のように生きればいいから楽なのだ、男は朝日の差すホテル・プラザのアンバサダー・スイートのビクトリア風のソファーの上で体を丸め極度の緊張状態に耐えていた
(『エクスタシー』村上龍)

『エクスタシー』では、サディストとマゾヒストという文脈で語られますが、その両者を分けるのは、自己決定と自己責任です。両者を放棄すればマゾヒスト、両者を引き受ければサディストで、この世界では、生まれ育った環境も、自頭や容姿も、社会制度も、運も、全て自己責任です。

マッカーサーが日本を12歳の少年に例えたのは、この「自己決定の不在によるイノセンス」が理由ではなかったでしょうか。

 

 

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