お疲れ様です。
今日は、鷲田清一さんの『だれのための仕事』をご紹介します。最初に、何が書かれているのかを、私なりにまとめてみますが、私のチョー理解なので、間違っている可能性が高いということをご了承ください。
チョー理解
はじめに
まず、はじめにでは、労働と余暇を対立的に捉える二分法は現代に合わない。ほとんど何も生み出していない消費的な労働もあれば、様々な物を生み出す生産的余暇もあるからだ。両者をどう捉えれば、生きている手応えや生きがいを得られるのだろうか?といった課題意識が述べられています。
同じような課題感を抱えている方は少なくないと思うので、すごく期待させられますよね。
第1章 前のめりの生活
第1章では、労働と余暇の両方に共通する背景を述べています。
労働も余暇も前のめりになっているというのですが、ここでいう「前のめり」とは、目的から逆算して合理的に・効率的に行動するというような意味です。ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」といった考えや、マックス・ウェーバーのプロ倫の影響で、労働にも余暇にも、このような考えが浸透してきました。
労働に合理性や効率性が求められるのは理解できますが、本来そこから自由であるはずの余暇にも、このような概念が浸透したことで、休日にも生産性が意識されるようになり、半分強迫的に無為な時間・空白の時間を排除し、充実した余暇を過ごそう。そういうような無意識のプレッシャーが発生します。
労働と余暇の両方に共通する背景ですね。
第2章 インダストリアスな人間
次の2章のインダストリアスな人間では、どちらかというと労働について深掘りします。
労働に合理性や効率性が求められた結果、やりがいが失われ、苦役になっていった経緯や、勤勉な労働者を称賛する価値観がどのように浸透してきたかが述べられています。仕事が生きがいであり、余暇とは仕事を充実させるための手段であるとして位置づけられるわけですが、それが飽和状態に達しており、何とかこのインダストリーな状況に風穴を開けようとしている、というのが現代の状況であるという認識が述べられています。
第3章 深い遊び
第3章は、余暇について述べられています。労働が賞賛される社会においては、遊びは不真面目なもの、無責任なものとして、否定的に捉えられることとなります。
一方、タイトルの深い遊びとは、ベンサムの用語で、損得勘定だけでは説明できないほど大きな意味や価値が賭けられている活動のような意味です。バリ島で行われている闘鶏では、鶏の勝ち負け以上に、その所有者の名誉や社会的地位が掛けられています。その他にも、命がけの登山の例も挙げられています。
第2章で見たように、余暇が労働のためのものに凋落したことで、現代ではこのような「深い遊び」は姿を消し、現代では、手応えや真剣さを欠いた「浅い遊び」しか存在しなくなってしまいました。しかし、本来の遊びはそういうものではない。本来の意味での労働と遊びは、共通点も多く画一的に分割できるものではない。では、両者をどう捉えればいいのでしょうか。
第4章 <労働>vs<余暇>のかなたへ
この章では、家事とボランティアを通して、両者の関係を考えています。
家事は、家庭というコミュニティの中で専業主婦が立場を確立する労働だったのですが、コンビニを中心とした利便性の向上で、それが失われました。ある意味、労働が求められない有閑階級のような立場になったわけですが、どうも幸せそうに見えない。余暇だけでは空虚になってしまう。どうも余暇だけではダメで、何かしらの労働が必要である、ということですね。
そしてボランティアが出てきます。ボランティアは非報酬的な労働を自ら志願して行うという意味で、現代の労働や遊びから失われてしまった<顔>があるというですね。第2章のインダストリアスな人間では、労働者が人間というより労働力として扱われる一方、ボランティアでは、個人のアイデンティティが確認できる行為である。そして、生きている手応えや生きがいと呼ばれるものは、このような、他者との関係性の中で達成され、自己のアイデンティティとも関連した行為の中に存在する。平たく言えば、自分の好きなことをやって人の役にも立つ。それがボランティアであり、失われてしまった労働と遊びとの新しい関係性である。といった感じでしょうか。
以上が内容のまとめです。要は、資本主義によって労働からも余暇からも、主体性ややりがいが失われた。そして、その両者を取り戻すものとしてボランティアがある。それが、未来の生き方だ、ということかと理解しました。
正直、何を言っているかよくわからんという箇所も多くありました。私のチョー理解なので、間違っている可能性があります。ちゃんと理解されたい方は本書をお読みいただければと思います。
仕事と余暇の新しい関係=ボランティア?
というわけで、仕事と余暇の新しい関係=ボランティアという結論になってしまったのですが、そんなことある?って感じですよね。確かに、両者のポジティブな面を併せ持つ側面はあると思います。自分の好きなことをやって人の役にも立つわけですからね。
でも、金銭的報酬というある意味最も重要な要素が欠けていまよね。FIREしてるわけでもなければ、どうやって金を稼いで生活していけばいいのでしょうか。著者は、意図的にこの面に言及していないような、ある種の不誠実さを感じてしまいました。本書は、生きがいの話なので、報酬を持ち出されると筋違いなのかもしれませんが。
(それに加えて、ボランティアは、やって欲しいけど金は払いたくない、っていう、その程度の仕事になりがちですよね、全部がそうではないですが。それは、消費者余剰としても生産者余剰とても小さいと思います。それに、小さな価値に、生きがいを見出すというのもちょっと私にはできないなという感じでした。大富豪だったらやるかもしれませんが。)
私の消費が誰かの生産、そういう場所で咲きなさい
1点、良かったのは、私は、消費と生産とを無意識のうちに分けて考えていたことに気づけたことです。消費の快楽と虚無、生産の幸福と憂鬱を別々に考えていて、だから生産の方を重視したい、そして何とか憂鬱なしの生産、平たく言えば嫌じゃない仕事というものが存在するか?という問題意識をここ数年持ち続けてきたわけです。
しかし、両者を分けて考えず、私にとっての消費が、誰かにとっての生産である、そういう物があるということに気づけたことは本当によかったですね。そんなこと当たり前なので、今更?と言われてしまいそうで、恥ずかしいですが仕方ないですね。
例えば、世界的なアルパインクライマーである山野井泰史さんは、自分のために登っているわけですが、それが結果として多くの人を魅了しているわけです。金銭的な報酬も、決して多くはないと思いますが、普通に生活するくらいには得られているようです。本書でも「深い遊び」の例として命がけの登山が出てきます。身近な例としては、ゲームをしているだけでは消費ですが、それを配信して視聴者に楽しんでもらえれば生産になるわけです。
よく「置かれた場所で咲きなさい」と言いますが、より理想的には「自分の消費が誰かの生産、そういう場所で咲きなさい」と言えるかと思います。
まとめると
- 労働と余暇を対立的に捉える二分法は現代に合わない(賛成)
- ボランティアは、報酬という観点で解にはならない
- 自分の消費が誰かの生産、そういう場所がある、そういう場所で咲きなさい
という感じでしょうか。
本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。



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