『五分後の世界』 アンダーグラウンドとも非国民村とも異なる道を歩みたい

読書

みなさん、こんにちは。

今日は村上龍さんの『五分後の世界』をご紹介したいと思います。

村上龍さんといえば最近テレビ東京の『カンブリア宮殿』のMCを退任されましたよね。最近彼を知った方は経済のイメージが強い作家かも知れませんが、『五分後の世界』は1994年の執筆なので、『カンブリア宮殿』が始まった2006年の10年以上も前の作品です。村上龍さん自身もあとがきで「最高のものになった」と書いているとおり、彼の中期の代表作と言って良いのではないかと思います。

あらすじを簡単にご紹介すると、主人公がパラレルワールドに迷いこむ話です。その5分ずれた世界では、太平洋戦争で日本は降伏せず地下に潜ってアメリカを中心とした国連軍とゲリラ戦を戦い続けている世界です。そこでは日本人は26万人にまで減少し、国土の大半を国連軍が分割統治しています。主人公は、日本軍のゲリラ兵に守られながら、元の世界に戻ろうとします。

プライドと経済発展という対立構造

この作品では、「国家としてのプライド」と「経済発展」という対立軸が、アンダーグラウンドと非国民村という対立主体で描かれます。そして、この2つの架空の日本を描くことで、現代日本に対して「このままで良いのか?」と問いかけてくる作品構造になっています。

アンダーグラウンド

その中でまず描かれるのがアンダーグラウンドです。

アンダーグラウンドと呼ばれる並行世界の日本は、規模こそ小さく経済的にも決して豊かではないのですが、科学、学問、芸術、スポーツ、教育など、あらゆる分野で世界をリードし、世界中の尊敬を集める存在として描かれます。

アンダーグラウンドで小田桐がヤマグチに、アンダーグラウンドが戦う理由を問うたとき、ヤマグチは太平洋戦争中、東南アジアや南洋諸島で兵士たちは民族が生き延びていくために最も貴重な情報を得た。そして、それを次の世代に伝えていくためには、戦い続けるしかないのだ、という趣旨の回答をします。これは、少々乱暴に言えば「民族としてのプライド」ということになるでしょう。

主人公である小田桐は、そのような国家のプライドのために戦い続ける日本に魅了され、元の世界に帰ることを拒否し、最終的にこの世界に残ることを決断する訳です。読むと分かるのですが、アンダーグラウンドには抗い難い魅力がありますよね。おそらく多くの読者が、このように小田桐の決断を支持するのではないでしょうか。私もそう思いました。

非国民村

一方で、この作品にはもう一つの日本が描かれます。それが非国民村です。

非国民村は、現代日本から経済発展を取り除いた存在として描かれています。経済的には貧しく、衣服も粗末ですが、日本語や伝統文化だけは残っています。ただしそれも表層的に消費されている印象が強く、西洋文化との接続も失われています。また、アンダーグラウンドに差別が存在しないことと対象に、非国民村には「五分搗き」と呼ばれる差別的が存在し、国連軍の将校に女性を差し出す場面も描かれます。

要するに非国民村は、アンダーグラウンドとは対照的に、強者に対して隷属的で主体性が欠如している、プライドのない社会として提示されています。

現代日本

そして、現代日本は、この両者の中間に位置しています。つまり、経済発展だけは手に入れたが、主体性が欠如し、プライドを失っているため「恥にまみれている」という訳です。

「国家としてのプライド」と「経済発展」。この二つを両立できるのは、アメリカや中国と言った一部の強国に限られるでしょう。そのなかで、日本はそして、経済的な豊かさも失いつつある中で、日本はもっと言えば一人ひとりの個人は、どちらの方向を目指すのですか?と問いかけてくるわけです。そして恐らく多くの人は、アンダーグラウンドに魅力を感じるのではないでしょうか。

アンダーグラウンドは望ましいのか?

しかし、アンダーグラウンドのような社会は本当に望ましいのでしょうか。

彼らは「国家のプライド」のために戦っていると説明しますが、その過程で戦い続けること自体が目的化しているようにも見えます。無菌室で培養された生物のように、純粋であるがゆえに脆弱な印象も受けます。そして、それは高畑勲が『火垂るの墓』で描いた「最低最悪の全体主義」に一面で通じるものを感じました。

例えば作中では、ミズノ少尉がワカマツの警備をめぐって反社会的勢力への対応に苦慮する場面がありますが、小田桐が相手の正体を見抜いて事なきを得ます。ここは数少ない小田桐が役に立ったシーンとして描かれますが、小田桐の洞察力は現代日本だからこそ身に着いたものと言えるわけです。

現代の日本は、卑屈であざとく、弱者を叩き強者にへつらうい、経済的な豊かさも失いつつある、アンダーグラウンドから見れば非国民村のように否定されるべきものかもしれませ。しかし、腐った大地にこそ美しい花が咲くという見方もまた成立しうるのではないでしょうか。今のままでよいとは思いませんが、アンダーグラウンドとも非国民村とも異なる道があるのではないか、と感じました。

まとめ

まとめると

  • アンダーグラウンドは「民族のプライド」のために戦っている
  • 非国民村は、経済発展を取り除いた現代日本である
  • どちらの道を選ぶのか問いかけている
  • アンダーグラウンドとも非国民村とも異なる道があるのではないか

といった感じでしょうか。

30年以上前の作品ですが、経済的な衰退がいよいよ顕著になってきた現在こそ、この問いの重みを増しているかもしれません。

本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。

補論① 小田桐は現代日本の代表「ではない」

我々は小田桐のことを現代日本の代弁者として見てしまいがちですが、これは誤りだと思います。小田桐は両親に捨てられ、叔父を半殺しにしたり、殺人と強姦以外の犯罪を犯し、AVプロダクションの社長という経歴です。つまり、親や学校、会社、政府といった組織からは一貫して独立し、個人として生きてきた人なんですね。これは、村上龍自身ということです。そしれ、村上龍というのは、現代日本でもかなり特殊な生き方をしてきた人と言って良いでしょうから、小田桐を現代日本の象徴ではありません。

補論② 国家のプライドを支えるものは何か

このコアにあるのは、自己決定ということなのかと思います。マッカーサーは敗戦後の日本を「12歳の少年」に例えました。

「ドイツと日本とでは全然違う。ドイツ人は文明の発展過程を考えると、我々と同じ45歳くらいの年齢に達している成熟した人種だ。だが日本人は、アメリカ人だったら赤ん坊でも知っている民主主義を教えてもらって喜んでいる最中であり、12歳の少年のようなものだ」

この発言は、マッカーサーがトルーマンによってGHQの総司令官を解任されて帰国し、1951年のアメリカ議会での証言です。当時日本でも炎上しマッカーサー人気の終焉を迎えることになりました。この発言自体の真意は議論のあるところかも知れませんが、日本が未熟であるという点について、否定できない面もあるのではないでしょうか。

社会評論家である芹沢俊介は「自分が選んだのではないという受動性がイノセンスであり、虐待や暴力もイノセンスによって正当化される。」という趣旨のことを述べていますが、マッカーサーが戦前の日本を12歳の少年に例えたのは、この「自己決定の不在によるイノセンス」が理由ではなかったでしょうか。

『五分後の世界』のアンダーグラウンドには、このようなイノセンスは存在しません。全てにおいて自己によって決定し、その結果を自己の責任のもとに受け止めるということがなされています。

その他

「国家のプライド」か

アンダーグラウンドのコアを「国家のプライド」と表現しましたが、この点は本文では読み取りにくいように思います。小田桐の「何のために戦っているのか?」という質問に、ヤマグチは太平洋戦争でゲリラ兵が得た情報を次世代に伝えるため、という回答では、じゃあその情報は?となりますよね。

また、生き残ることがゲリラの本質という説明もありますが、小田桐が「じゃあ仲間の秘密を売り渡してでも生き残るべきか?」という質問に、ヤマグチは「それはもはやゲリラではない」という回答をしています。その他、非国民村の記述などから、「国家のプライド」としました。

他者の存在

同じ経済的に貧しくても、アンダーグラウンドは服装をきっちりしており、非国民村はボロボロ。これは、「他者」を意識しているかとの違いが表面化しています。アンダーグラウンドは「誰もが分かるやり方で表現しなければならない」と教科書に書いていますが、この点は私も必要性がわかりにくかった。「他者」を意識し、緊張感を持って生きろというメッセージかと思う。

生徒は無菌室の純粋君か

これは村上龍はNOという書き方をしている。作中の生徒は、先生にチクるような体制に隷属する優等生とは真逆の描き方をされているからだ。まるで『69』のヤザキのようである。だが、本当にそうだろうか、と思う。そのような生徒が、半分自己目的化したゲリラ戦に簡単に賛成するとは思えない。そして戦闘を継続するために、全体主義を強制するだろう。それは戦前そのものだ。

作成

めちゃくちゃ時間がかかった。読むのに2時間。書くのに10時間以上かかっていると思う。この後Youtubeも録らなければならない。時間をかけると内容は熟成されてくるが、鮮度は落ちる。読んだばかりの新鮮な感覚を勢いのまま書いて録った方が良いのでは?という気もする。

コメント

タイトルとURLをコピーしました