ナッジなどマーケティングでは当たり前。他力本願な心象風景を克服し、個人として自立できるか(ナッジ 自由でお節介なリバタリアン・パターナリズム。本の小並感 179)

読書

誰が個人の幸せを規定しうるのか(リバタリアン・パターナリズムという形容矛盾)

ナッジという単語は知っていたが、この本の副題にあるように「リバタリアン・パターナリズム」という単語で表されることは初めて知った。ゼロ100で表せないのは理解できるが、形容矛盾だと思う。

パターナリズム: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。(出典:wikipedia

従来の経済学やゲーム理論が想定する合理的経済人というものは存在せず、実態は個人個人は賢明ではなく合理的でもない。そしてその結果として、望ましくない状態を招くこともあるだろう。そのような事象を説明するために、行動経済学が発展したのは自然に思う。

しかし、上記の定義でいう「強い立場の者」は、「弱い立場にある者の利益」をどのように把握するのだろうか。個人の価値観は益々多様化しており、その人にとって何が幸せであるかは一意に決定することなどできない。だから、ミルの自由論のように法的な強制は極めて慎重でなければならない。

ミルは、刑罰を用いた法的強制や統制が文明社会の成員に正当に行使される根拠は、他社に対する危害の防止のみだとする他者危害防止原理(harm principle)を提唱した。彼はその際「本人自身の幸福は、物質的なものであれ、精神的なものであれ、十分な正当化理由とはならない」とし、「当人の利益」という目的を法的強制の正当化理由とすべきではないとしている。

自己責任を嫌悪する他力本願な心象風景

しかし、これは結果を全て自己の責任とみなし、特に行政などの他者にその原因を求めないという自主自立の心構えと不可分だろう。自由と責任とは表裏一体であり、その矜恃がないから立法も行政も自身の責任を回避する、お節介な政策を取らざるを得ないのだ。

コロナの軽症者を自宅療養とする方針に批判が殺到したのも記憶に新しいが、下記の寺の書き付けもそんな日本人の卑しい性根と、それに応える形でマーケティングされた仏教の教え自体も皮肉っているように思える。

ナッジなどSNSやマーケティングでは当たり

この本の一連の議論は、当人がそれと気付かないうちに個人の意思決定に介入するというナッジの特性の危うさが議論の中心になっているが、どうも幼稚に見える。なぜならこんな工夫は、民間では既に当たり前のように溢れているからだ。

マックの椅子が硬いのは客の回転率を上げるための意図的な仕様だが、客は自分の意思で席を立つのであって、マックに追い出されたとは思わない。ミロシェビッチがジェノサイドを引き起こした極悪人なのはアメリカのPR会社の戦略だが、自分の意思で極悪人と判断したのであって、PR会社に植え付けられたとは思わない。

ナッジの厳密な定義に当たるかはともかく、民間では既にナッジのように、当人にそれと意識させずに操作することが当たり前なのだ。それこそtwitterなどのSNSでは、日常的に狐と狸がばかし合っているのである。

パターナリズムを拒否し自立できるか

公権力がナッジを政策に活用すべきかという本書の議論は理解できるし、例えばロックダウンのように法的には不可能な政策を、ナッジを使ってそれに近い効果を上げることはできるかも知れない。しかしそのような強権的な政策を、権力者が立法府を通さずに実現しようとすることは、熱しやすく冷めやすい国民性と相まって、危険な濁流が起こる気がする。

ナッジは、パターナリスティックな政策を取る国では有効に機能し得ず、リバタリアン的な政策を取る場合に本領を発揮するのではないか。前者よりも後者のリバタリアン+ナッジの方が、良いように感じるが、日本はパターナリズムを拒否し、空気を拒否し、独立自主の個人として自立できるだろうか。

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