日蝕 現代における「正統」と「異端」 新しい神が宿るのはどちらか

読書

こんにちは

今日は、平野啓一郎さんの『日蝕』をご紹介したいと思います。ちょっと現代的な意味を計りかねる印象だったのですが、正統と異端という切り口で見ると、現代社会や個人に対する問いが浮かび上がってくるように感じました。

異端の包摂というアプローチ

主人公はキリスト教の学僧なのですが、他の神学者が異端を排斥するのに対し、主人公はその異端をキリスト教の教義の中に吸収しようとします。そういう心づもりが特に序盤で度々出てきます。少し抜粋してみます。

抑私の願いは異教哲学の排斥にあるのではなく、上に見えている如く、それを我々の神学の下に吸収し、従属せしめることであった。

排斥するを以って仍我々の教義の外にそれが放置せられるを許してはならない。云うなれば毒を含んだ水さえをも、葡萄酒に変えてゆかねばならないのである。

これを見ると、すごく傲慢で攻撃的なようでもありますが、他の聖職者たちが異端を異端として切り捨てるだけでなく、むしろ魔女裁判にかけて迫害するという形で積極的に否定していくことを考えると、主人公の考えというのは、むしろ寛容的なようにも思えます。

異端の中の新しい神

この段階では、主人公はキリスト教の教義を疑っていない訳ですが、ピエェルとの会話や両性具有者の焚刑を経て、疑問に変わります。火刑に向かう両性具有者にキリストの姿を重ねていることからも、むしろ異端の中にこそ新しい神を見出す訳ですね。

あの日、焚刑に処せられむとする両性具有者に、迫害せられ十字架にかけられた基督の姿を見た者はなかったであろうか。石を投付けた後に、眼前にゴルゴタの幻を見て、驟然と悔悟の念に擒われた者はなかったであろうか。(中略)

しかし、あえてこれを筆に上したのは、私には慥かに両性具有者こそが、再臨した基督ではなかったのかと疑われた時期が有ったからである。

その疑いは、私の怯懦の裡に打ち捨てられてしまった。跡には唯、不可解な生き物の姿のみが残されている。

主人公は、その後もキリスト教を捨てることなく、神職として務める訳ですが、このような手記を残さざるを得ないほどの体験だった訳です。

現代における正統と異端

では、現代における正統と異端とは何でしょうか。正統とは、空気のようにあって当たり前のもの、疑問を差し挟む余地のない価値観と言えるかと思います。例えば、国家が存在するとか、1人一票の選挙権があるとか、人前では服を着るとか、差別はいけないとか、殺人はよくないとか、少子化はよくないとか、そう言ったものでしょうか。

そして異端とは、その正統という存在に疑問を投げかける存在と言えるかと思います。国境はない方が国家間の格差を是正するのでは?1人一票ではなく納税額に応じて投票数を割り当てるべきでは?恥の感覚自体が文化的な刷り込みでは?差別は人間の根源的な特質では?戦争で人を殺すと英雄なのか?国家維持の道具なのか?と言った考えでしょうか。この小説を読むと、むしろ現代では排斥されがちな、異端の考えにこそ、未来の正統の源泉があるかも知れませんね。

正統 異端
国家が存在する 国境はない方が国家間の格差を是正するのでは?
1人一票の選挙権がある 1人一票ではなく納税額に応じて投票数を割り当てるべきでは?
人前では服を着る 恥の感覚自体が文化的な刷り込みでは?
差別はいけない 人間の根源的な特質では?
殺人はよくない 戦争で人を殺すと英雄なのか?
少子化はよくない 国家維持の道具なのか?

まとめると

  • 正統と異端の物語である
  • 異端の中にこそ、新たな正統の可能性を見出した
  • 現代における正統と異端、そしてその在り方を問うている

という感じでしょうか。文体が文体なので挫折したという方も多いようですが、15世紀のフランスという舞台に引き込むのに一役買っていると思います。

本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。

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