改良 社会適合者の「よい子の道徳」、過剰適応を血で拒否しろ

読書

みなさん、こんにちは

今回は、遠野遥さんの『改良』をご紹介します。この作品は2019年に発表された遠野さんのデビュー作で、遠野さんはこれに続く『破局』という作品で芥川賞を受賞されています。

一般的にあまり知名度の高い作品ではないかも知れませんが、私にとっては、社会適合者による外部的な規範の内面化と、それへの違和感がまるで自分自身を見ているようで、名刺代わりの小説10選を久しぶりに更新することになりました。

社会適合者の「よい子の道徳」と過剰適応

あらすじはこんな感じです。

ゆるやかな絶望を生きる大学生の「私」は、バイトで稼いだ金をデリヘルと美容に費やす日々。やがて女性の服を買い、「美しさを人に認められたい」と願うようになる。しかし人生で唯一抱いたその望みが、理不尽な暴力を運んできて――

文庫の裏に記載されているものなのですが、結構的確にまとめられているように感じました。

主人公である「私」は、社会や他者からの要請といった外部規範に違和感を覚えつつも、基本的にはそれに反抗することなく従順に生きています。スイミングスクールに通うことを憂鬱に思いながらも1年間続け、バイトのシフトの交代も「都合よく使われているだけでは?」と疑問を感じつつも引き受けてしまう。

一言でいうと社会に適合した「よい子」です。ルールや約束を守り、空気を読み、人に迷惑をかけないといった、学校教育で教わるような「よい子の道徳」に適応している訳ですが、それだけではなく、普通は反発するような事態にも無意識に自分を納得させ過剰適応をおこしています。そして、恐らくその結果として、将来の希望や情熱を持たない、「ゆるやかな絶望」という平坦な日常の中にいます。

複雑に絡み合いながら同居する外部規範と主体性

そのような、外部規範に従順な「よい子」の「私」にとっての唯一の主体性が「美しくなりたい」という欲望なのですが、作中では実はその主体性すら美しくない自分に対して外部から要請された規範への対応だったのでは?という疑問が投げかけられます。

「私」がつくねの部屋に泊まりに行った日、つくねは自分が打ち込んでいるバンド活動すら、実は外部からの要請に応えているだけではないかという不安を口にします。

でもね、そういうふうに考えはじめると、自分の意思だと思ってやっていたことが、実はブスだったことによってやらざるを得なかったことなんじゃないかっていう……(中略)……でもブスとわたしは表裏一体だから、ブスであることを本当の自分と切り離して考えるのも変で……

この話を聞いた後、「私」が勃起不全に陥るのは、「私」が唯一情熱をもっている美への情熱も、実は他者からの要請によるものではないのか?という疑問が生じているためと考えてよいでしょう。

このように、「私」の中では、外部規範と主体性とが葛藤し、反発し、受容し、複雑に絡み合いながら同居しています。そして、そのような状態が沸騰するのがトイレでの性暴力のシーンです。

葛藤の沸点:外部規範の拒否

トイレでの性暴力のシーンは、バヤシコからの性暴力とほとんど同じ状況が再現されます。

一方的で理不尽な暴力、つまり外部規範の強制という点はもちろん、バヤシコの時に私が快感を覚えたことと、トイレの男に頭をなでられて不快ではないと感じることも同じです。そして、これらの理不尽な暴力が強い混乱を引き起こす点も同じです。作中では「誰かが大きなへらを使って私の脳みそを掻き混ぜているような、そういう感覚があった。」という、まったく同じ表現がこの2つのシーンで使われています。

普通に考えれば暴力の行使も十分正当化される状況ですが、「よい子の道徳」に過剰適応している「私」は、バヤシコのときと同じように「気持ちいいんだからいいじゃん」と自分を納得させて受け入れる寸前まで行きます。

そしてその時、つくねからの電話があり、自分が初めてメイクをした時のことを思い出します。

私は美しくなりたいだけだった。男に好かれたいわけでも、女になろうとしているわけでもなかった。だから、私がこの状況を受け入れようとしているのは、私を守るための一時的な反応でしかなかった。いつまでも恐怖や嫌悪を感じていたら私が壊れてしまうから、そうした負の感情をごまかすため、無意識に私を騙しているに過ぎなかった。私は、これ以上そんなことを続けたくはなかった。本当にやるべきことは、恐怖や嫌悪の原因を根本から取り去ることで、そして今ならそれは難しくなかった。私は男の性器に前歯を当て、思い切り強く嚙んだ。

それまで「私」の中で同居していた外部規範と主体性とがここでは鋭く対立しています。外部規範を受容することは、恐怖や嫌悪といった負の感情をごまかすために、無意識に自分自身を騙し、主体性を毀損する行為であり、外部規範の受容を強い形で拒否し、主体性を恢復します。ここがこの作品のポイントで、突きつけられた「問い」に主人公が提示した「答え」になると思います。

解説で平野啓一郎さんが、『破局』の主人公を「自律的に他律的」と表現していますが、『改良』の主人公にもそれは当てはまります。「私」が獲得した主体性(美やつくねへの執着)も、いつかまた価値観が反転し、外部規範に飲み込まれる日が来るかもしれません。しかし、今はそれでいい。 結末に漂う、将来の不安定さを孕んだままひとつの方向性を見出したような涼やかさがありました。

まとめ

まとめると

  • 「よい子の道徳」に過剰適応している
  • 外部規範と主体性が複雑に交錯している
  • 美とつくねの存在が主体性を恢復している
  • それすら外部かも知れないが、いまはそれでいい

といった感じでしょうか。読み終わった後すぐ『破局』も買って今手元にあります。

本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。

メモ

スイミングスクールの経過

ここからは編集の過程で本編からは落としたメモになります。断片的ですが、読解のヒントになれば幸いです。

まず、スイミングスクールについては、「私」のなかでは

  1. 強 制 行きたくないのに行かされる
  2. 受 容 1年間通い続ける
  3. 否 定 通わなくても喘息は治った
  4. 再受容 通ったことで喘息が治った(トイレ事件直後)

最初は強制だったものが、時間を経て最終的には再受容されるんですね。今回主体性を恢復した「美」への執着も同じような道を辿る可能性もあると思います。

奴隷の道徳・よい子の道徳

次に、奴隷の道徳・よい子の道徳ですね。最初、ニーチェのいう「奴隷の道徳」に近いかなと感じました。しかし、奴隷の道徳が、強者の価値観を否定する形で作られる一方、「私」の道徳は決して強者の否定という形で始まってはいないので、本編では「よい子の道徳」としました。正確には、よいこの道徳への「過剰適応」が問題なので、それを表す言葉があればいいなと思ったのですが、思いつきませんでした。

『月曜日の朝、スカートを切られた』

話は飛びますが、欅坂46の『月曜日の朝、スカートを切られた』に「反抗したいほど熱いものもなく、受け入れてしまうほど従順でもなく」という歌詞があります。「私」はこれに近いなと思ったのですが、「受け入れてしまうほど従順でもなく」が少し違和感がありました。「私」は違和感を覚えつつも「気持ちいいんだからいいじゃん」と受け入れているから、ですね。ですので、本編では言及しませんでした。

ヒール=美、外部規範に対抗する唯一の武器

最期に、美が外部規範に対抗する唯一の武器であるということです。トイレのシーンでヒールが唯一の武器だったという記述がありますが、これは「私」にとって「美」が外部規範への強制に対抗する「武器」であるということを示しています。以上です。

直後の感想

これ。こちらの方がやはり筆が走っている。

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