はいこんにちは。
今回は『マディソン郡の橋』ですね。最初にこの本を読んだのは高校生の時でした 。私は大学で通学電車に乗るようになるまでは、ほとんど本を読まない人間だったのですが、この本は実家にあってなぜか高校生の頃に読みました。そして、多分一冊の本を読み切ったことが嬉しかったのか、そのことを友人に伝えてしまったんですよね。そしたら、その人がたまたま『マディソン郡の橋』を知っていて、内容が内容なので「え…それって中年の不倫ものじゃなかったっけ…?」みたいな、ちょっと気まずい空気になったことも覚えています。今回は本当に久しぶりに読み返してみました。
追憶の誘惑
私は、もう2度と会えない人、2度と取り戻せないもの、2度といけない場所、そういった苦い過去に思いを馳せるような作品がすごく好きなんですよね。例えば、カズオ・イシグロの『日の名残り』とか、朝吹真理子の『きことわ』とか、映画でいうとアン・リーの『ブロークバック・マウンテン』とか、そういう作品です。そして 『マディソン郡の橋』にも、それに近いものを感じました。
自傷行為的な耽溺の危険性
一方、これらの作品を表立って好きというのは若干憚られます。過去への耽溺は、あまり健康的な行為ではないと感じるためです。懐古厨と言うとわかりやすいのですが、過去を基準に現在や未来を腐すような、そう言う態度ですね。そこまで行かないとしても、過去に永住してしまい、そこから一歩も前に進まない。現在や未来から目をそらし、逃避として機能してしまういわば「心のリストカット」の危険性を、過去への耽溺という行為は孕んでいると思います。
両者、つまり追憶と耽溺の明確な線引きは難しいのですが、それでも決して同じものではないとは思います。苦い過去への追憶が、気が付くと自傷行為的な耽溺になってしまう。そう言うことは十分あり得ますし、そうであるならもう過去は一切振り返らない、と言う割り切った態度の方が良いかもしれません。フランチェスカは、別れた後もナショナルジオグラフィックを購読してロバートのその後を追い続けますが、これは別れた彼氏・彼女のその後をSNSで追うような、かなり際どい行為ではないでしょうか。
耽溺すべき過去もなし?
「そもそもお前には耽溺するような過去があるのか?」というツッコミもあるかもしれません。2度と会えない人、2度と取り戻せないもの。そういったものは、一度手に入れたからこそ存在するのであって、そもそも一度も手に入れたことがないのであれば、耽溺すべき過去もないわけです。
ですが、何もしなくとも、逆に何もしないことで、それまで当たり前に存在していた時間とか可能性といったものが、どんどん失われていきます。カズオ・イシグロの『日の名残り』には、そのことが強く現れています。その意味で、何も手に入れていないように見える私でも、現実からの逃避という自傷行為的な過去への耽溺に陥ってしまうことは十分考えられます。
心のリスカの拒否
『マディソン郡の橋』は、追憶に浸るような非常に好きなタイプの作品なのですが、一方で自傷行為的な過去への耽溺の危険性を教えてくれています。何もしないことで失われていく機会損失を意識し、心のリスカを拒否したいと思います。クリント・イーストウッドとメリル・ストリープで映画にもなっているようなので、観てみようと思います。
本日は以上です。


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