今回は『偶偶放浪記』です。
いわゆる旅エッセイ・旅漫画ですが、有名な観光地などを巡るのではなく、山谷・西成などのドヤ街や郊外にある時から見捨てられたような宿屋、外国人が多く暮らす団地、離島、中華街の裏通りなどを巡った記録になっています。結構ディープな体験をしていて、西成では実際にドヤ(簡易宿泊施設)に泊まったりしています。
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私は旅エッセイ・旅漫画が好きで、例えばつげ義春の『貧困旅行記』や松本仁一の『アフリカを食べる』、近藤聡乃の『ニューヨークで考え中』などは今でも手元にあります。
旅については、プルーストが下記のように言っているようです。
真の旅の発見は、 新しい風景を探すことではない。 新しい目で見ることなのだ。
The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in having new eyes.
(原語はフランス語)
ここでいう新しい目は、新しい視点とか、新しい概念と置き換えてもよいと思います。そういったものを獲得することで、今まで疑問にすら思わなかった自分の日常や、生活習慣、思考様式などを相対化し、気づかないうちに囚われていた鎖から、少し自由になれる気がします。
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ですので、ケイト・ダグラス・ウィギンの言うように
遠くに行くことはある種の魔法で、戻ってきたときには全てが変わっている。
There is a kind of magicness about going far away and then coming back all changed.
わけです。
私はこの新しい視点を求めて旅エッセイを読んでいるように思いますが、今回の偶偶放浪記からは、それを感じることはできませんでした。
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なぜ?どこがどう?と問われると難しいのですが、例えばつげ義春の『貧困旅行記』では、旅を自己否定としての逃避と捉え、その誘惑と葛藤が滲み出ています。そこに共感するんですよね。
一方、この本はどちらかというと出来事の記述が多く、そのことが新しい視点の獲得に繋がらない要因の一つかと思います。確かに出来事自体は非常にユニークなのですが、コンテンツは溢れています。西成のドヤもXですぐ写真が出てきます。それ以上の著者の考えや違和感・疑問、考察、世界の再発見という過程が希薄に感じました。あったとしても一般論の域をでていません。自分の気持ちや価値観の変化は、ともすると独りよがりの独善的な内容になってしまいがちなので、そこは注意が必要ですが、それでももう少し踏み込まないと読者の心を動かすことはできないのではないでしょうか。
私は旅は好きなのですが、単なる消費行動は「旅」とは呼べないのでないでしょうか。それは読書という度も同じです。この本がそうは言わないのですが、少なくとも私は心を動かされることはなく、「戻ってきたときには全てが変わっている」ようなのケイト・ダグラス・ウィギンの魔法を感じることはできませんでした。
本日は以上です。


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