りりちゃんは「自分がどう見られるか」を強く意識していた
頂き女子りりちゃんを扱った『渇愛』(宇都宮直子)は、「気になってはいたが読むのを躊躇していた」本でした。Xには、彼女の支援者が立ち上げた「りりちゃんはごくちゅうです」というアカウントがあり、そこに記載された本人の言葉以上のものが期待できないように思えたからです。
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しかし、『みいちゃんと山田さん』の作者である亜月ねね氏は、頂き女子りりちゃんの漫画化についての打合せに参加し、彼女について次のように述べています。
りりちゃんは、《自分がどう思われているか/どう見られているか》をかなり意識しているなという印象でした。漫画の内容も自分の都合の良いようにコントロールしたいようでしたが、詐欺師のプロパガンダ漫画描かされるのはまじで勘弁!
亜月ねねVSりりちゃんの東西ドリームマッチまだ面白い pic.twitter.com/VhfexA1o60
— 三式伊田ピ (@itapi12) August 4, 2026
ここで、亜月ねね氏が指摘するように、りりちゃんが「自分がどう見られるか」を強く意識していたことは間違いないように思いました。その意味で本人の言葉は一定程度割り引いて考える必要があり、一歩引いた第三者の客観的な意見としてこの本を読んでみました。
なお、関連するツイートを概要欄に記載しておきますので、ぜひご覧になってください。
「地獄を見せて欲しい」
本書にも出てくるのですが、りりちゃんの映画化も検討されます。結局映画化のプロジェクトは頓挫してしまうのですが、監督は彼女に「どんな映画にして欲しい」と聞いたところ、彼女は「地獄を見せて欲しい」と答えたのだそうです。
獄中で反社との関係性を疑わざるを得ない人との結婚を望み、被害弁済のために支援者が立ち上げた合同会社いぬわんを解散させた彼女の姿勢に、以前は私も「地獄」を見た気もしたのですがが、本書の読了後は、幼稚でつまらない事件に思えました。
渡邊真衣さんの起こした詐欺事件の被害者のために設立した合同会社いぬわんは令和7年7月末日までに解散する予定です。設立の意図、活動実績、解散の経緯などについて説明していきます。
【設立の意図】
合同会社いぬわんは、渡邊真衣さんの弁護人、草下シンヤ、立花奈央子によって設立されました。…
— りりちゃんはごくちゅうです (@inu2narenakatta) April 1, 2025
社会が作り出したのか?
この本が言うように、確かに頂き女子りりちゃんは、社会が作り出したと言える側面はあると思います。
実際、色々な人が彼女を食い物にするわけです。マニュアルの作成と販売には担当ホストのアドバイスがあり、拡販やサロン運営には情報商材屋のサポートがあり、歌舞伎町では一時期カリスマ的な人気を誇り、おぢから頂く度に担当には褒められ、周りの女の子からは崇められ、次第に義賊的なイメージで神格化され降りられなくなったこともあるでしょう。インフルエンサーのホス狂いあおいさんは、「りりちゃんは私たちが作ってしまった」と言っています。
また、彼女は父親からDVを受け(少なくとも彼女はそう主張し)、母親からは半ば邪魔者扱いされ、学校ではいじめられ、周りには金を毟ろうとするホストと、体目当ての風俗客と、信者としての女性しかいない。友達と言えるような人はいないわけです。
りりちゃんは、犯行の動機の一つに社会に対する復讐をあげているのですが、例えば警察が父親のDVからに救ってくれなかったことなども含めて、それまで社会が彼女に対して加えてきた仕打ちを踏まえれば、彼女が社会に対する絶望し、復讐したいと思う心情も、許容はできませんが理解はできます。事件がこれだけの耳目を集めたのも、彼女の個人的な体験が、結果的に社会構造の問題そのものの一面を暴いていたから、と言えるかもしれません。確かにそういった側面はあり、おそらく裁判ではそういった事情も酌量され量刑に反映されたでしょう。
しかし、それでも「幼稚でつまらない」と感じたわけです。
幼稚でつまらない
そう感じた原因は、他ならぬ彼女自身がどうも本気で、自分は被害者であると考えていることにあります。
「被害者の人たちも私に嫌なことをした」、「私は与えてあげた」、「体を売ることは嫌だった」、「被害者にお金は払いたくない」、「私にお金を渡して欲しくなかった」、「ホスクラがなければ、私はこうなっていなかった」
一時期は自身の犯した罪を自覚し反省の弁を口にすることもあったのですが、一時期から親が悪かった、ホストが悪かった、社会が悪かった、被害者が悪かった。そういう趣旨の発言が多くあります。
親や周囲の影響、それ放置した社会構造があったにせよ、自分の行為の意味を理解し、決定し、結果に対する責任を自覚しない人間は幼稚と言われても仕方がないのではないでしょうか。支援者の一人である草下氏は、りりちゃんのことを「泣いている女の子」に例えています。
それでも、良識ある大人の物差しで彼女は測れない
ただ、それでも、良識ある大人の物差しで彼女を測るだけで終わらせることができないものが彼女にはあると思います。
たしかに幼稚であるとは思います。彼女の犯罪行為は、生きづらさを抱えた人たちを型に嵌めて金銭だけでなくその後の人生も収奪するものであり、当然許されない行為です。一部では重過ぎるという量刑も、著者は妥当と判断しています。市民社会を構成する良識ある大人としては、その考えは一般的なものではないでしょうか。
しかし、それと同時に、彼女を社会の枠組みだけで捉えることも、一面的に過ぎるように感じました。例えば、「りりちゃんはごくちゅうです」にポストされた、自身が初めてリスカしたときの不安や恐怖は、非常に切実なものではないでしょうか。このポストで、彼女は当時の担当を「生きる芸術作品」と称していますが、彼女のことを「生きる文学」といっては言い過ぎでしょうか。
亜月ねね氏が感じた「自分がどう思われているかをかなり意識している」という印象は、彼女の自己演出というよりも、周りの期待に過剰に応えようとしてしまう外部規範の内面化なのかもしれません。
冒頭紹介したように彼女は、獄中で知り合った反社と疑わざるを得ない人との結婚を望み、おそらく最も彼女のことを考えていたであろう支援者との関係性を絶ちます。彼女が、その後どうなったのかは分かりません。2025年9月に新しい支援者によって開設されたと思われるXも、2026年4月で更新が止まっています。
彼女が今後どのような人生を歩むのか、恐らく誰にも分からないでしょう。ただ、私など及びもつかない激しい生き方であることは間違いないと思います。私は彼女の生き様にある種の羨望を覚えていることを否定できませんでした。
本書は、事件を一度立ち止まって客観的に見直すのによいと思います。特に、被害者の現状や心情は、報道されることも少なかったように思いますが、この本ではその部分に多くを割いています。一方で、そのスタンスのせいで「良識ある大人の判断」に留まっており、善悪を超えた部分に踏み込むことを意図的に避けており、その意味では物足りなさも感じました。
本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。
私がリストカットしてた理由
私の左うでには、リストカットした跡がいっぱいある。… pic.twitter.com/NN27VbopVE
— りりちゃんはごくちゅうです (@inu2narenakatta) May 22, 2024
メモ
女版ジョーカーといえるか
ホアキン・フェニックスが主演したジョーカーという映画は、乱暴にまとめれば「社会的に孤立し、経済的にも精神的にも追い詰められた中年男性が、自分を無視してきた社会に対して暴力という形で復讐する話」です。そこでは、犯罪を犯したジョーカー本人ではなく、彼をそうせしめた社会構造そのものに疑問が投げかけられます。
では、頂き女子リリちゃんも同じように、社会に復讐しようとした女版ジョーカーと言えるのでしょうか。確かに彼女は、先ほど述べたように生い立ちから、ジョーカーと同じような境遇にあると言ってもよいかと思う。
しかし、ジョーカーは、その行為の意味を理解し、意思とその結果に責任を負う覚悟の元でもとで決定を下します。一方、リリちゃんはそうではない。分かっていない。理解していないし、これでは結果に責任を自覚できない。その意味で「女版ジョーカー」とは言えないように思います。
被害者意識の発生
「被害者にお金は払いたくない」、「自分も被害者である」と言い出したのは、「新しい支援者」が現れてからである。それを契機に、被害弁済プロジェクトを解消することになるので、そそのかされたという見方もできると思う。
マニュアル
今でもネットで閲覧できる彼女のマニュアルは、悲しきモンスターと化したおぢの心理が深くえぐられ言語化されているし、それはおぢ達に自分自身を客観視する契機になったことでしょう。大げさに言えば救済を感じた人もいたかも知れません。
マニュアルは10,000円~30,000円で約1,000人に販売された。風俗やパパ活で金銭を得ようとする女性に人気だった。しかし、彼女が一人で作成し、販売し、サロン運営までしていたわけではない。最初は当時のTwitterに裏引きの成功例をアップしていたが、それを知った当時の担当がマニュアルにして売ればいいとアドバイスした。また、弁護人は情報商材業者の手助けもあったと主張している。貢がせ界隈と呼ばれる情報商材グループとツイキャスをしたりして拡販していった。一部ではカリスマ的な人気を誇り、ホストから褒められ、周りの女の子から喜ばれ、期待されることが嬉しかった子どもは、そうやって作られたイメージから降りられなくなった。そう考えると、「女版ジョーカー」と言えるのかもしれない。
私など及びもつかない激しい生き方であることは間違いない。しかし、その激しさは、全てを理解し受け入れたうえで、それでもなお、という意思と覚悟の上に成り立っているのではなく、分別のつかない子どもが甘えて駄々をこねているだけのもののように思えた。

