「意味の介入の拒否」に意味はあるのか?(犬婿入り、多和田葉子)

読書

こんにちは。今回は『犬婿入り』です。多和田葉子さんは、日本での知名度はそこまで高くないかも知れませんが、ノーベル文学賞に最も近いと言われる日本人作家ですね。今回の『犬婿入り』は、その芥川賞受賞作です。

▼どう受け止めればよいのか

ただ、読んだ多くが、この作品をどう受け止めればよいのか困惑しているように見えます。普通、小説であれば、登場人物に感情移入したり、考え方や生き方に影響を受けたり、時代や社会に問題提起したりするものですが、この作品にそういった一般的な意味での小説の意味を見出すのは難しいのではないでしょうか。ネットを探すと「ポストモダン文学がなんちゃら」というような高尚な解説もあるのですが、正直よくわからないので、自分なりにこの作品の意味をまとめてみたいと思います。

結論を言うと「意味の介入を拒んでいる」ということなのかと感じました。

▼物語の構造 → 説明なし

この作品では、結局どういうことなの?という疑問が多く残ります。電報は誰が出して、誰に届いたのか?みつこに届かなかったのはなぜか?みつこの過去も分かりませんし、みつこがなぜ扶希子と夜逃げしたのかも分かりません。そもそも夜逃げの必要があったのかも分かりませんし、扶希子の母親は全く出てきません。利夫に何があったのかも分かりませんし、なぜ太郎と旅に出るのかも分かりません。それ以外にも読者が持つであろう疑問について、普通の小説であれば当然あるべき描写がほとんど何もありません。

▼文学的な意義 → 見出しにくい
また、あえて文学的なテーマを読み取ろうとすれば、それも可能かも知れません。例えば、みつこは社会から半分足を踏み出した存在です。39歳で独身で、郊外のさらに少し辺鄙な場所に住んでいます。衛生観念や性的なことについても、こどもを塾に通わせる大人のそれとは異なります。完全に社会から断絶されているのではなく、半分だけはみ出した存在です。それは扶希子も同様で、父親である利夫が変人であることを理由にいじめられています。その二人が、最終的に夜逃げする。この作品が発表された1992年という時代は、おそらく現代よりも標準から外れた「異物」に対して厳しい面があったのではないかと思いますが、民話的な構造を利用してそのような女性たちの自立を描いている、みたいなことも可能かも知れません。ただ、やはり説得力は薄いように思います。

▼意味の介入、それ自体を拒んでいる?

つまり、物語の構造的にも、文学的な意味においても、ほとんど何も説明されていない訳ですが、少なくとも私にはそう思えたのですが、逆にそのこと自体が作者の意図なのかなと感じました。結果には原因があり、行動には理由があり、小説には物語があり、文学には意味がある。普通はそういうふうに考える訳ですが、そうではない。因果関係があるものではなく、に人間の行動は合理的ではなく、小説の構造は論理的に組み立てられているものではなく、文学に意味などなくていい。とかく合理性・効率性が求められがちな風潮へのアンチテーゼとしての小説なのかもしれない、という感じです。

▼意味の介入の拒否に意味があるか?

しかし、仮にそうだとして「意味の介入の拒否」という小説に意味があるでしょうか。私としては、読者の心に何がしかの傷跡を残さなければ、あまり意味がないように感じました。少なくとも私はこの小説を読んで何がしか心が動かされるとか、手元に置いて読み返そうとか、前向いて生きて行こうと元気をもらうとか、死にたくなるとか、そういったことはほとんどありませんでした。みなさんはどうでしょうか。

本日は以上です。

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