シロさんとケンジがみる最期の夢(きのう何食べたSeason2)

日常

きのう何食べたのSeason2が先週の金曜(12/22)に最終回だった。ちょうど2年前くらいにはまり、アマプラでSeason1、お正月スペシャル、映画と全て見てリピートもした。Season2が始まってからは毎週の楽しみで、今はロスに苦しんでいる。

最後に見る夢をいくらで買いますか?

Season2の主題歌だった大橋トリオの「カラタチの夢」には、次のような一節がある。シーズン中でアラフィフとなる2人は、両親だけでなく自身の死を意識させられるシーンが度々登場する(シロさんの同級生が亡くなったり、ケンジの母親がケンジにもしものことがあったときのために顔合わせをセッティングしたり)。

いつかはみんな旅立つ日を迎える
分かっていたなら今どんな僕でいる
どんな今日を生きる

話は変わるが、ベンチャー役員3界に家無しというブログの下記のエントリーを思い出す。読ませる文章なのでぜひ原文を読んで欲しいが簡単に要約する。

父が肺がんで死んだ。抗がん剤の副作用で朦朧とする意識のなか、息子である自分の小さい頃のことを夢に見るのだという。父は、自分の死に際しても社会通念上の合理性を失わなかった。極端に利己的に走ることはしなかった。それは、息子である自分に続いていることが大きな理由だろう。(この記事では、企業継続の前提を用いて、ゴーイングコンサーンといっている)。

自分も、仕事と子育ての両立は大変である。時間もお金もかかる。しかし、最後に見る夢は何億出しても買えるものではない。今日も自分の戦場で戦おうと思う。いつか来る「その日」のために。

「その日」のための「今日」

もちろん、子供がいても利己に走る人はいるし、子供がいなくても立派な人間はたくさんいる。しかし、1つの要素であることは間違いないだろう。

シロさんやケンジにゴーイングコンサーンはない。子供も家族もいない。末代になることが確定している。そして、そんな二人が生きる「今日」は作中で描かれたとおりだ。2人が最後に見る夢も積み重ねられた小さな今日のように、「喜びの雨 悲しい歌も全部束ねて笑って行こう」ものになるだろう。

自分の戦場のために

気が付くと12/24で、世はクリスマスだった。これを書いているカフェでもBGMがクリスマスソングである。以前は、将来が不安で保守的に走っていたが、もはやそんなことは言っていられない年齢になってしまった。

正確に言うと、やや捨て鉢気味で「どうでもよくなった」と言った方が近いかも知れない。これはよい兆候ではない。ゴーイングコンサーンのない個人が、利己に走る兆候だろう。家族も子供もおらず、シロさんやケンジのようにパートナーもいない独身限界男性は、どのように生きればよいのだろか。メリークリスマス。

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