まなざしの地獄と不在の狭間で、僕たちはどこで裸になればいいのか(知花くららにとっての短歌)

読書

真っ赤なリボンになった君

先週の日曜日、洗濯物を干しているとNHKが短歌を特集していた。

そこで、ゲストの知花くららさんの短歌を知った。ご自身が流産した時の経験を詠んだものである。

私の知人が妊娠していて、今確か8ヶ月くらいである。

彼女は1年ほど前一度流産している。その時はそこまで自分ごととして捉えなかったが、当時の彼女の気持ちを思うとつらい。この知花さんの短歌を当時知っていたら、彼女の心を少しでも楽にできただろうか。

そんなことがあって、知花さんの本を2冊読んでみた。

 

「歌の中ではいくらでも脱げる」

知花さんは一時期、世界が求めるモデルとしての知花くららと、素のままの自分とのギャップに悩み摂食障害になってしまう。そこで出会ったのが短歌だった。

これではダメだと、摂食障害を乗り越え、30歳を過ぎた頃、短歌と出会った。歌の中では、今までは隠してきたような格好悪いことも恥ずかしい気持ちも、不思議とまっすぐ綴れた。

言葉の海の中で、気持ちにぴったりのピースを探しながら漂う。そこでは、”こうあるべき自分”を演じる必要なんてなくて。ひたすら自分の心の声に耳を傾けて、手探りで言葉を探す。何だか羽根が生えたように自由になれた気がした。

第1子妊娠中の知花くらら、流産乗り越え母になる思い 子どもの性別・名前についても言及でも、「歌の中ではいくらでも脱げる自分がいる。湿度の高い自分になっている。」と言っている。

僕たちは、どこで裸になればいいのか

素の自分を晒け出すことは難しい。

同僚は基本仕事だし、家族や友人もたまに会う機会に愚痴話や弱音など聞きたくはないだろう。一緒にいて楽しい、と思って貰わなくてはならないのだから。恋人であれば尚更である。

ではSNSはどうかというと、Twitterでも本音は歓迎されない。フォロワーに面白いと思ってもらわなければならない。しかし、だからと言って裏垢を作っても、何の反応もなければ意味がない。聞いて欲しいのだ。

先日亡くなった見田宗介先生は、かつて永山則夫が終生逃れ得なかったスティグマを「まなざしの地獄」と呼び、40年後の2008年、秋葉原の連続殺人の原因をまなざしの不在に求めた。私たちは、他人の目から自由になりたいのに、完全に自由にはなりたくないというジレンマを抱えている。

そんな環境で、知花さんは短歌で裸になれた。

知人も友人も、他人の目も、過去も未来も、全てを捨てて、自分の心の奥に潜り、それを言葉で晒け出し、かつ聞いてくれる人がいる。そんな場所や人が必要だ。

知花さんにとってそれは短歌だったわけだが、私にとってそれは何だろうか。

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