母が膵臓癌になりました。

母が膵臓癌になった。

ステージIVで、手術や放射線治療は不可。現在は、抗がん剤治療の再開を待っているところである。肝臓の数値次第では、抗がん剤治療も諦め、緩和ケアに移行するかも知れない。正直、書くことに迷いもあったが、しっかり記録として留めておきたい。まずは経緯から。

5月18日(水)

職場にいると昼頃父からラインが届く。夜落ち着いたら電話で話したいとのこと。なんとなくいいことではなさそうだ、とは思いつつ、その時は「実家を売るのかな?」とかそのくらいに考えていた(そんな話は過去全然出てなかったけど)。

家に帰って電話したのが、22:00くらいだったと思う。そこで、母が膵臓癌であり、ステージIVであることを伝えられた。25日(水)から治療のために入院するという。

私は前職の取引先の方が、膵臓癌で亡くなった。まだ50代だったと思う。お子さんは中学生で、田園都市線の沿線で行われた葬儀にも参列したので、膵臓癌がどういうものか、つまり発見が遅れることが多く、予後が非常によくないということも知っていた。だから、ステージIVの膵臓癌という時点で、なんとなく想像がついた。

「第二の患者」 癌患者の家族という生活

もう何を話したのか覚えていないが、電話は16分くらいだった。この電話の以前と以後で、世界が変わってしまった。

それまでは、なんとか仕事をこなすことで精一杯だった。私は昨年12月に転職しており、既に5ヶ月ほど経過していたが、異業種への転職だったので、専門知識の不足や人間関係で苦労していた。特にイベントが続いていたこともあり、その日その日をやり切って、22:00頃・23:00頃にPCを閉じると、やっと解放された気分になり、毎日のように飲酒を重ねていた。

しかし、母の膵臓癌を知ってからは、その開放感はゼロになった。仕事が終わっても母の膵臓癌は治らない。仕事が終わっても休日でも喉に刺さった魚の骨のように、常にそのことが心に居座り続ける。癌患者の家族は「第二の患者」と言われるらしいが、その始まりだった。

5月20日(金) できることがない、という現実

癌であると知った日から「自分になにができるか」を結構真面目に、もしかしたら母親のためには、生まれて初めて真剣に考えた。

しかし、ないのである。

誕生日や母の日に食べ物を送ったりしていた。年に1回家族旅行もこの年まで続いていた。しかし、もうそれはできないのである。美味しいものを食べることはできない。味覚障害で美味しいと感じることが少なく、そもそも食欲がない。旅行に行くこともできない。

「親孝行、したい頃に、親はなし」というが、本当だった。

江頭2:50の言葉を噛みしめる。私は、誰かを笑わせる努力をしてこなかった。母親に笑って欲しい。

この日は、前職の同僚と市ヶ谷で飲む。年代が近いので言おうかと思ったが、場が暗くなるかも知れず言わなかった。楽しくはあったが、「こんなことをしていていいのだろうか?」という、ある種の罪悪感のようなものを覚える。

5月21日(土)

帰省する。近所の神社でお守りを買って帰る。

 

デパ地下で寿司を買って帰る。母は味覚が変わってしまい食欲もない。寿司は食べられないかもしれないが、、、一応買って帰る。母は柑橘系が食べられると聞いていたので、デパートで少し変わった高級な柑橘類を買った。寿司は食べられなかったが、柑橘類を食べてくれた。

パックの寿司もお皿に並べれば…

なんというか、意外に元気そうだった。最後に会ったのは2月でその時は元気だった。その後もラインは来ていたりしたので、そうでないと困る。

5月25日(水)に抗がん剤治療のため入院する。最後になるとは思わないが、コロナで入院中は面会謝絶になる。帰る時は抱き合って泣いた。

15歳。一緒にいてくれるだけで嬉しい。

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