湯浅誠を最初に知ったのはNHKスペシャルの権力の懐に飛び込んだ男だったと思う。
当時の民主党政権に招かれる形で内閣府の参与に就任し、就労一体支援の体制構築に取り組みむ。激務の合間に執務室の床で寝るシーンや、できない理由を上げる現場に苛立つシーンなどを覚えている。
城繁幸は、彼の内閣府参与の辞任の挨拶から、支援の拡充は財源の議論とセットでなければどうにもならない、と彼が考えを改めていることに触れ、「健全な左翼というものがこの国にありうるとすれば、湯浅氏はその一人ではないか。」としている。
その後、大学で教えているのはどこかで読んだが、今何をしているのか、彼の問題意識はどこなのかを教えてもらうために読んでみた。
何をしているのか
こども食堂の中間支援をしている。実際にこども食堂を運営するのではなく、その運営をサポートする活動のようだ。彼は、こども食堂の意義として、下記の5つを上げている。
- にぎわいづくり(地域活性化)
- 子どもの貧困対策
- 孤食対策
- 子育て支援、虐待予防
- 高齢者の健康づくり
一般にこども食堂は「食べられない子が行くところ」というイメージがある。本書でもこども食堂を見学したサッカー日本代表監督の岡田さんがそのような感想を述べてるシーンがあるが、そうではない。もっと広い意味で、いわば「地域コミュニティの結節点」のようなものだ。
多様性の包摂がイノベーションの必要条件
こども食堂は「他者」とのコミュニケーションの機会になっている。
サザエさん的な家庭は絶滅危惧種となり、世間が解体された現在、こどもは他者と接する機会が減少している。少し歳の離れたこども、親以外の大人、高齢者などで、こども食堂は子供が他者と会話する場所になっている。
これは、経営的に言えばダイバーシティ経営に通じる。統一された規格品は純度が高まる分、変化に脆くなる。だから意図的に異分子を組織の中に投入する訳だが、それには「他者とコミュニケーションが取れる」という前提が必要だ。
この困難さは、著者も多様性と共同性とが両立しにくく「安易な多様性礼賛は危うい」と指摘している。多くは、そのめんどくささから、敬遠や遠慮や攻撃になってしまうが、そうではなく「配慮」によって実現を目指している。著者は、そのような人材の基礎となる機会として、こども食堂を捉えている。
やりたくてやるか、やらされてやるか
こども食堂の運営は、ほぼ全てボランティアのようだ。
しかし、同じくボランティアであるPTAのような活動とは全く異なる。PTAはやらされ感・義務感で運営されている一方、こども食堂の参加者にそんな意識はない。
その運営のコツは、「御膳立てしないこと」だという。お膳立てすると参加者はサービスの受益者となり、お客様気分で提供されるサービスに対して文句を言い出す。だから、参加者=運営者とするのが、このような組織を持続的に運営していくことのコツなのだ(キンコン:西野が、クラウドファンディングを、共犯者にする装置と読んでいたのを思い出す)。
参加者が運営者であり、それをやりたいと思っている。だから、コロナ禍でも(やらない理由はいくらでも出てくるだろうが)自主的に対策を講じて、どうにか活動を続けられるよう独自のアイデアがどんどんと出てくる。
この「やりたい人間がやる」というスタンスは、ボランタリーな活動を、より持続可能な形で継続する、今後の組織運営の基本であるように思う(なお、こども食堂は大人の方が帰りたがらないということも多いらしい。)。
速く行きたいなら1人で行け、遠くに行きたいならみんなで行け
本書で紹介されているアフリカの諺である。私は、安易にこのような綺麗な思想に賛成はしかねる。孤独なリーダーが集団をドライブすることが必要な場合もあるだろう。だが、それでも本書はこの諺に説得力を持すだけのものがある。
「何が湯浅さんの原動力なんですか?」
何かのインタビューでの質問で、彼の答えは「怒り」だった。それは、非正規社員やホームレスなどの従来の社会制度からこぼれ落ちてしまった人たちへの無関心への怒りであり、そのような人々への「包摂」は彼の最もコアとなる思想だろう。その点は現在でも変わっていない。
しかし、何というかより現実的なアプローチになったように感じる。
本書では行政に対する批判はほとんどない。組織の性格上50歩遅れることは仕方のないことだと認めている。そして、多様性が経済成長にとっても重要で矛盾しないことにページを割いている。
すごく上から目線かもしれないが、成熟を感じる(スイマセン…)。
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