みなさん、こんにちは。
みなさんは「文学って何の役に立つの?」と問われたことはあるでしょうか。文学ではなくても、読書って何の役に立つの?と聞かれたことはあるかも知れませんね。
この本の著者である平野啓一郎さんといえば、芥川賞の選考委員も務める、まさに日本文学会の中心に位置するかたですよね。この本は、そんな平野さんが、文学は何の役に立つのか?というタイトルの講演録を始めとしたエッセイや批評をまとめた本になっています。話題はドストエフスキーからアート、AIまで幅広いのですが、今回は、この表題の問いについて、平野さんがどう考えているのか、まとめてみたいと思います。
と言っても、帯の裏で平野さん自身がこう言っています。「僕の答えは、講演中に語られていますが、同時にここに収録されたエッセイのすべてが回答になっているとも思っています。」。この講演は実はyoutubeにも音声が上がっていて、誰でも見られます。講演は90分ありって、この本の該当部分だと34ページ。この本全体ですと330ページくらいあるので、文学は何の役に立つのか?という問いに対する平野さんの答えを、簡単に要約できるはずもないのですが、今回はあえて、それを少しやってみたいと思います。その上で、最後に少し私の感想をお話ししたいと考えています。
「役に立たなくてもいい」というスタンス
というわけで見て行きますが、平野さんは、まず「役に立たなくてもいいんじゃない?」という意見からスタートしています。文学というのは、作家の表現なのであって、何かの役に立つために書かれたものではない。という意見ですね。役に立つというのは社会のシステムの一部として手段として扱われていますが、文学はそれ自体が目的である、という意見です。ボードレールも似たようなことを言っているようで、平野さんもこの意見の説得性を認めながらも、それでもやはり役に立つということは、マクロミクロの両面で、つまり社会や他の誰かの役に立つという実感は重要だとおっしゃっています。
役に立たない奴はお荷物という風潮
平野さんがそのように考えるのには、時代背景も大きく関係しています。コストとリスクという両方の観点から、以前は自己責任論で済まされていた消極的な否定が、現代では役に立たない奴はお荷物だという積極的な否定論の風潮があるわけです。津久井やまゆり園の事件や、タバコを吸う人の医療保険の問題を引き合いに出して、それまでは個人の問題として扱われてきたものが、国家財政と紐づけられ、積極的な否定につながっているということですね。で、その文脈で言えば、役に立たない文学というものは、個人の問題を超えて、社会のお荷物であり存在してはいけないのか、となるわけです。そういうこともあって、平野さんとしては、文学は役に立つと言いたいわけですね。
アートはどうか?国家の関与の拒否
で、本題に入る前に、アートの話になります。アートも同じように何がアートで何がアートではないのか?という議論が延々繰り返されてきたわけです。アートの中には、アート業界がアートだというからアートなのだ、というトートロジーのような議論もあって、最初それは平野さんは否定的に捉えていたわけですが、少なくとも国家がこれはアートであるとか、アートでないとか、決めるよりも、当事者が判断すべきという点は共感しています。愛知トリエンナーレの事件に言及しながら、社会的なコストのような観点で国家基準でアートが決められるべきものではない、ということですね。同じような考えが、文学にもスライドできるというわけです。
文学は個人を苦しみや孤独から解放してくれる
じゃあ文学は?ということなんですが、平野さんは文学が苦しみや孤独から自分を解放してくれた、という経験を語っています。平野さんは北九州出身なんですが、ヤンキー文化のつよい地域で、周りに読書するような人もいなかったわけです。孤独を感じて生きていくのが苦しいわけですが、そこで三島由紀夫の金閣寺とか、トーマスマンのトニオクレーガーと出会って、まさに自分のことを書いていると、自分は1人ではないのだと、すごく救われた経験があるわけです。それは、解放であると同時に、ノーベル賞作家と同じようなことに悩んでいたのだと、新しい世界との接続ということでもあったわけです。
これは、小説だから、つまり文学だからできたことです。論文とかになると社会システムのような大きな話になってしまう一方で、小説・文学というのは、やはり個人を起点として描けるということですね。例えば、徴用こうの問題にしても、日本とか韓国とかは抜きにして、1人の人間に対してシステムが加えたある種の暴力を、個人として描けるわけです。だからこそ、金閣寺やブッデンブローク家の人々が、平野さんに採っての救済になったんですね。
なので、文学は何の役に立つのか?という問いへの平野さんの第一義的な回答は、苦しみや孤独から個人を解放してくれる。だから役に立つ、ということになろうかと思います。
それだけでいいのか?政治への関与
最後に平野さんは、現代の文学というのは、それだけではダメなんじゃないか、という問題提起もされています。苦しみや孤独から個人を解放してくれたとしても、現実の世界は引き続き長く辛く苦しいわけです。もっとそこまで文学は踏み込まなければいけないんじゃないか?という問題意識も述べて、この講演を結ばれています。
政治的自由・個人の自由を実現するのは、(平野さんが否定的に捉える)経済的な自由
というのが、少々乱暴なまとめになります。ここからは、私の感想になるわけですが、まず文学が個人レベルで役に立つということについては、ほとんど違和感はないですね。読書されている方であれば、多かれ少なかれ平野さんにとっての金閣寺に近い経験があるのではないでしょうか。私もあります。
そして、随所に散りばめられている文学の政治に対するスタンスというのも理解できます。文学は役に立つと言ってもそれは個人のレベルであって、例えば今日のガザのような戦場で、明日の食べ物の心配をしなければいけないような飢えた子供達には文学は全く無力なわけです。そこはやはり政治の領域になりますし、平野さんとしては文学は政治の領域にまで踏み込まなくてはいけないのではないか?と問題提起しているわけです。よく映画監督や歌手やお笑い芸人といった方々が政治活動に軸足を移すというのはよくありますが、やはりそう言った表現活動をしていても、現実世界への影響が非常に限られているので、もっと直接的に政治に働きかけるというスタンスですね。これもよくあることかなと思います。
それよりも私が気になったのは、平野さんが新自由主義を敵対的に捉えているように感じられる、というところです。この講演が行われたのは、2019年11月に開催された学会の基調講演なのですが、その学会のテーマには「文学のサバイバル──ネオリベラリズム以後の文学研究」と銘打たれています。ここでいうネオリベラリズムというのは、新自由主義と言ってよいと思います。平野さんは、新自由主義の延長として全体主義的な風潮を見ているようです。例えば、経済的な弱者に対して、最初に新自由主義に基づく自己責任論で消極的で冷めた否定があり、その後に、社会のお荷物という全体主義的で積極的な熱い否定に移ったというように述べられています。ですので、政治的な自由を獲得するためには、経済的な自由を抑制すべきだと考えているように見受けられます。
しかし、本来の意味での自由主義というのは、むしろ全体主義とは対局にあるのではないでしょうか。新自由主義と本来の意味での自由主義は似て非なるものなので、そこは注意が必要ですが、いずれにせよ政治的な自由・個人の自由を最大化しようとする場合、その手段はむしろ平野さんが否定的に捉える、経済的な自由を推進することではないかと思います。ぜひ、平野さんにはフリードマンの『資本主義と自由』を読んでほしいなと感じました。有名な本なのでもう読んでいるかも知れませんが、こんなに誰かにこの本を読んで欲しいと思ったのは初めてかも知れません。
まとめ
今回は、文学は何の役に立つのか?という部分だけを取り上げましたが、それ以外にも、ここに示したように非常に幅広いテーマについて論じているので、平野さんの思考を垣間見ることができます。現代文学会を代表する知性が何を考えているのか、知りたい方におすすめです。
まとめると
- 文学は、個人を苦しみや孤独から解放してくれる。だから役に立つ
- 一方、政治的にはほぼ無力。もっと政治に関与していくべきでは?という課題意識
- 政治的自由・個人の自由を実現するのは、平野さんが否定的に捉える経済的な自由なのでは?
- 現代文学会を代表する知性の頭の中を垣間見える
と言ったところでしょうか。
本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。


コメント