父殺し・母殺しの先の自由と孤独にどう立ち向かえばよいのか。三宅香帆『娘が母を殺すには?』雑感

読書

みなさん、こんにちは。

今日は三宅香帆さんの『娘が母を殺すには?』について紹介したいと思います。三宅香帆さんと言えば、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか 』といった大ヒット作があるほか、Youtubeのチャンネル登録者数は13万人を超え、2025年の紅白歌合戦にも審査員として出演するなど、今最も活躍している文芸評論家ですよね。

今回ご紹介する『娘が母を殺すには?』は、やや物騒なタイトルがついていますが、もちろん物理的に殺すのではなく、日本社会では構造的に女が母の束縛を受けやすいという状況(主張)を踏まえ、主に小説や漫画、ドラマを素材に、娘が母の束縛からいかに自由になれば良いのかを考察する内容になっています。

この本によると、日本のサブカルコンテンツは、様々な形で娘の母親殺しを試みてきました。例えば

  1. 母親がそもそも死んでしまうケース(萩尾望都の『イグアナの娘』)
  2. 代わりとなる母を探すケース(山岸涼子『日出処の天子』)
  3. 理想的な虚構の母を創造するケース(吉住渉『ママレード・ボーイ』)
  4. 母親を嫌悪するケース(川上未映子『乳と卵』)
  5. 自らが母になるケース(吉本ばなな『キッチン』)

などなど、日本の娘たちは母を殺そうと必死だったようですね。

一応、タイトルである『娘が母を殺すには?』という疑問への回答も示されており、大雑把にまとめると「母の規範という存在を認識し、言語化し、対立の解消に自分自身の欲望を優先することを繰り返し試行する」という感じです。

正直言って内容にはほとんど違和感はありませんでした。良くも悪くも「ですよね」という感じでした。ただ、これは、「母親殺し」ではなく「父親殺し」では?という気がしました。

一般的には、「父」は社会や他者からによる規範や承認を象徴するので、そこからの自由というのは、他者の価値観ではなく、自分自身の価値基準を構築し、それに基づいた自己決定のもとに行動し、その結果に責任を負うことをいうかと思います。

一方、「母」はそういった社会や他社といった外的な世界からの庇護者として、無条件に自分を受け入れてくれる存在を象徴するケースが多いと思います(この本の編集長であり評論家でもある宇野常寛さんは、母の庇護に沈溺している状態を「母性のディストピア」と言う用語で表しています。)。

この分類でいえば、『娘が母を殺すには?』で取り上げられているケースというのは、社会や他社といった外部がたまたま母であるというだけで、文学的な意味では「父親殺し」に分類して良いように思います。

これは、言葉の定義に難癖を付けているのではなく、「父親殺し」の先の話こそが現代的なテーマだと思うからです。先ほどの定義で言うと、「父親殺し」の先には「自由」がある一方、「母親殺し」の先には「孤独」が待ち受けていることになります。両方とも言うほど簡単ではないし、その先にある自由と孤独は耐え難いものがある。だから(強者以外の)多くの人が無条件の父と母を求めているのではないでしょうか。

行為・状態 一般的な意味 本書
父親殺し 規範からの自由 規範からの自由(本書では母親殺しと記載)
母親殺し 庇護からの孤独 言及なし
殺害後 自由と孤独に耐えられない 言及なし

その意味で、今このタイミングで「父親殺し」(本書では母親殺し)をテーマに据えることは、やや周回遅れであるように感じました。多くの女性は、母的な無条件の庇護から自立し、父的な規範に対応し、それに囚われない自己の価値観の構築を模索している。そして、その先にある孤独と自由に苦しんでいる。では、どうすればいいのか?そういったテーマの三宅さんの本も読んでみたいと感じました。

本日は以上です。また次の読書でお会いしましょう。

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