村上龍の『エクスタシー』にみる、「幸福な奴隷」からの脱却方法

読書

村上龍の『エクスタシー』は、エログロ表現がきついこともあってか、話題に上ることは少ない。妻夫木聡が主演した『69』と対照的だが、『エクスタシー』は『69』の後日談として読むことができる。どちらも「いかに奴隷として生きることを拒否するか?」が、テーマだからだ。

ゴッホが耳を切った理由

「ゴッホがなぜ自分の耳を切ったか、わかるかい?」この問いに対するミヤシタの答えはこうである。

ゴッホは、自分のレベルを、最初の作品を描いたときに合わせてしまった、それ以外の自分は全て許せなかった、それで、自分を罰しようとしたんだと思います

ニューヨークのホームレスであり、『69』の主人公であり、おそらく村上龍自身でもあるヤザキは、常に快楽を追求してきた。自身のレベルを落とすことを拒否してきた。楽しんで生きないことは罪なことであるという価値観のもと、幸福な奴隷たち、それはミヤシタであり、『69』に登場する従順な生徒や教師たちに、自分の楽しんでいる姿を見せつけることで復讐してきた。

30分後に男はガタガタと震えだしわたしはサディスティックに振る舞う良い機会だとも考えたができなかった、男はそういうときも決してマゾヒストにはならなかっただろう、マゾヒストは楽だ、衣服と運動と名前と意味を捨てて赤ん坊のように、奴隷のように生きればいいから楽なのだ、男は朝日の差すホテル・プラザのアンバサダー・スイートのビクトリア風のソファーの上で体を丸め極度の緊張状態に耐えていた

幸福な奴隷を拒否するために

サディスト・マゾヒストという区分は白と黒、0と1のように離散的に明確な区分けの存在するものではなく、スペクトラムとして境界は曖昧であり、個人は必ずどちらかに属し続けるのではなく、サディストも常にマゾヒストになり得る(恐らく村上龍自身もそうだろう。そうでなければ、ここまで幸福な奴隷を描写できないし憎みもしないだろう)。

では、サディストとして振る舞うために、言葉を変えれば、幸福な奴隷として堕落することを拒否するために、自分のレベルを落とさないためには、どうすればよいのだろうか?

この点について、作中では明示されない。それは、ヤザキがホームレスになった理由と同義だが、個人的に3つ、ヒントらしきものがあるように思う。

1つは、「対象があって初めて欲望が発生する」というサイバネティクスの授業である。欲望が最初にあり、対象を探すのではない。逆だ。対象があって初めて欲望が発生する。金がありドラッグがあり女がいて円環が閉じてしまうことを防ぐためには、新しい「対象」を探さなければならない。

2つ目は、ヴァラデーロの歌だ。ケイコとレイコと何もしなかった日、あらゆることができたのに何もしなかった日、ヤザキはキューバにある世界一美しい海を歌ったこの歌を聞いて過ごす。ヴァラデーロでボクは幸せを知った、きっとあなたも知るだろう。

3つ目は、「創造」である。ヤザキは何か売るものを探している、とガンは言う。「他人に対してできることは何もない、と書いてあった、そいつの中に、元気な、充足した自分を映し出してやることだけだ」。ドラッグもセックスも「消費」である。しかし、「豚を逃がせ」と大声で寝言を言うとき、奴隷を開放するための「創造」を意識しているのではないか。

 

『エクスタシー』が村上龍の代表作などと言うつもりはないが、彼の初期の問題意識、幸福の奴隷からの脱却という問題意識が、かなり色濃く出ている作品ではあると思う。そして、その後、『13歳のハローワーク』やカンブリア宮殿として、「仕事」を消費の快楽として対置することになるが、『エクスタシー』は「消費による快楽」を極め、その限界を知り、「創造による幸福」への転換点になっているように思う。

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