しろばんば TLというゴミに埋もれてしまった「あの頃」を救い出すことに意味はあるだろうか?

読書

中学の国語の大森先生は、授業の頭に少しだけ小説を読み聞かせしてくれる先生で、それが井上靖のしろばんばだった。大森先生は一時期体調を崩したこともあり、1年では読み終わらなかったが、「洪作」と「おぬい婆さん」はみんな覚えていた。今となってはなぜ大森先生が、数ある小説の中でしろばんばを選んだかは分からない。

優れた小説とはなにか?

映画でも何でも優れたコンテンツというのは、「時代の喉元に突きつけるナイフのように鋭い問題提起があるか?」だと思う。しろばんばにそれがあるだろうか?

さき子の死

さき子の死は、読んだ人なら恐らく誰でも強く印象に残っているだろう。母の妹であるから叔母に当たる訳だが、母と別れて暮らす洪作にとっては、母のようであり、姉のようであり、学校の先生でもあった。

中川との関係から白眼視され、結核を患い、産まれたばかりの我が子とも引き離され、上の家の一室に隔離されているさき子と洪作の襖越しのやり取りが切ない。

「わからずやね。お帰りなさいと言っているのに、どうして帰らないの」それは𠮟責の口調ではあったが、どこかに弱々しいものが感じられた。・・・

「だめ」思いがけず唐紙一枚を隔てた向こうでさき子の声が聞こえた。今までの叱責口調ではなく、何か遊戯でもしているときの、こちらの心をじらす様なあの低く息をつめた甘い声であった。・・・

次の瞬間パッと細めに唐紙が開いたと思うと、さき子の白い腕が一本飛び出してきて工作の頭をぽんと叩くと、直ぐまた引っ込んで、唐紙は再び閉められてしまった。・・・

「帰りなさい」今度のさき子の声は違っていた。それは有無を言わせぬ厳しい口調を持っていた。

おぬい婆さん

おぬい婆さんに対する洪作の気持ちは、私も記憶がある。私の両親は共働きだったので、帰るといつも祖母がいた。今から思うと祖母はちょっとおぬい婆さんに似ている気がする。

我が強く、理屈が通じず、陰口を叩き、周囲の目を気にせず、何でも自分の思うとおりにしないと気が済まない。このような人が自分の保護者だったら、いやそうでなくても、例えばおみやげわざわざ貰いに出向いたり、忘れ物を学校に届けたりといった行為は、子供心に社会性を逸脱した、ひどく恥ずかしいものに感じるものだ。洪作がおぬい婆さんにひどい言葉を叩きつける場面は、私も似たようなことをした記憶があるだけに心が痛い。

TLに埋もれてしまった「あの頃」

忘れていた「子供の頃」を思い出させてくれる。子供は何を考えているのか、どう感じているのか。

例えば、好きな人と好きな人(おぬい婆さんとさき子)が喧嘩しているときの、どちらに味方したい気持ちとか、勝った・負けたの感覚とか、「そうだったな」と思いだす。私にそういうことが役に立つ(?)ときが来るかは分からないが、「自分の子供が何を考えてるか分からない」みたいな人にはよいのではないか。

TLというゴミに埋もれてしまった「あの頃」を思い出させてくれる。それは、大正も令和も変わらない。

2度読むか?売るか?

2度読む価値がないなら売ることにしているが、少し迷っている。聖地巡礼してみたい。それまで本棚に眠らせておくか。

井上靖 『しろばんば』 の里を歩く 【伊豆湯ヶ島】 ~親戚の方との遭遇も!~《井上文学散歩・前編》

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