「お前、休むのか?見てなくて書けるのか?」 全ての「私」にプロとしての矜持を問う落合の哲学

読書

「お前、休むのか?見てなくて書けるのか?」

Twitterで田端さんが激賞していたが、個人的には文春オンラインの記事にギクリとさせられた。転職したばかりの私に、プロとしての自覚を問われているように感じたからだ。同じように感じた人も多いのではないだろうか。

 シーズン中に休暇を取ろうとすると、釘を刺された。

「お前、休むのか? 俺たちはプロだ。シーズン中は毎日、野球をやってる。それを見てなくて、お前、俺たちのことを原稿に書けるのか?」

落合は情実的な繋がりを持とうとはしなかった。その代わり、会社員である記者にもプロとプロの関係を求めた。

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両立し得ない矛盾した決断

成果を出そうと思えば、両立し得ない概念の間で苦しむことになるだろう。正解のない中で、誰にも相談できず、誰も責任を取れず、孤独に決断を下さなければならない。

  • 結果と過程
  • 組織と個人
  • 論理と感情
  • 短期と長期

この論理と感情の両立し得ない決定の重圧が、落合の心をざわつかせる場面がある。

同点のまま迎えた9回表、ツーアウト2、3塁。マウンドには阪神のストッパー藤川球児、バッターボックスにはタイロンウッズという場面で、藤川は10球連続でストレートを投げ込み、11球目のストレートをタイロンウッズがセンター前にはじき返して試合を決める。

その勝負は見るものの目を奪う勝負だった。エンターテイメントとしては完璧だったことだろう。

しかし、藤川はなぜフォークを投げなかったのだろう?勝負に徹するならフォークを使うべきだったのではないか?そんな疑問を投げかけた記者に、落合は声を荒げる。

「お前がテストで答案用紙に答えを書くだろ?もしそれが間違っていたとしても正解だと思うから書くんだろ?それと同じだ!そんな話聞きたくない!」(中略)

落合を取り巻いているのは勝負における矛盾だった。自らの信じる答えと現実に生まれ出る解との齟齬である。(中略)私が触れたのは、決断するものの葛藤の襞だったのではないだろうか。

勝利の先にあるもの

組織に背を向け、常識に背を向け、信頼や情を切り捨て、冷酷に勝ちに徹して徹して得た勝利の先に何があるのか。

「じゃあな」と言って去っていく落合の背中を、その場に立ち尽くしたまま見ていた。勝者とはこういうものか。私は慄然としていた。

落合は空っぽだった。繋がりも信頼もあらゆるものを断ち切って、ようやく掴んだ日本一だというのに、ほとんど何も手にしていないように見えた。頭を丸め肉を削ぎ落とした痩せ過ぎのシルエットが、薄暗い駐車場に浮かんでいた。一歩ドームを出れば無数の非難が待っているだろう。落合の手に残されたのは、ただ勝ったという事実だけだった。

闇の中にひとり去っていく落合は、果てたように空虚でパサパサに渇いていて、そして美しかった。

これは、落合に限らない。

彼に人生を変えられたプレーヤー達、個人として結果を出すことにこだわるよう求められた続け、結果を出すまでも、結果を出した後も、荒野を一人で歩むことを求められる。そしてだからこそ退任に当たっての感情は熱いものになる。これも矛盾の一つだろう。

私は、私の結果を出さなければならない。

私は、前職で現場の信頼を勝ち得ることはできたと思う。退職に当たって、多くのメールを貰った。惜しいと言ってくれる人もいた。しかし、結果を残せただろうか。現場の信頼を断ち切ってでも、結果のために冷酷に決断できただろうか。

前職の社長は、現場の職員の信頼はなかったかも知れない。私はそれを見て「やり方がよくない」と感じたものだ。それは成果を出すための孤独な決断だったのだろうか。

もはや私には関係がない。経営者ができることがあるとすれば、それは結果を出すことだけだ。私は、私の結果を出さなければならない。このままでは、何の専門性もないまま40を迎えてしまうだろう。

全体として、オシムを思い出した。

(No. 190)

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