津久井やまゆり園の事件については、既に2回書いている。
それは、植松聖の思想が少しでも私の一部であるからだ。自分の子供が重度障害者となった時、「いなくなればいい」という思いを持ってしまう可能性を否定できないからだ。
だから下記の本の「植松聖とは誰なのか」に対する私の答えは、「私自身の一部」である。
この本でも表紙にある通り、植松聖をモンスターとして咀嚼し消費してしまうのではなく、私たちの心の「憂鬱な断面」なのだと書いてあったので買ってみた。
安楽死の問題
この本は、植松本人にフォーカスしたというより、精神鑑定の評価をめぐる司法制度や、マスコミの報道のあり方などにも議論は及ぶが、その一つが安楽死の問題である。
もしも意識活動がないことが医学的に100 %証明されたとして、さらにその人への介護やケアが、周囲に過度な負担をかけて家族を不幸にしているのであれば、安楽死という選択肢は認められるのだろうか。この問いに対して、僕はまだ答えることができない。
日本では本人の意思による安楽死に加担した場合は嘱託殺人の対象となる。本人の明確な意思表示や、回復不可能な病気を患っているなどの条件を満たせば、違法性は無いと判断される場合もあるらしいが、重度障害者ではその意思表示は得られないだろう。
それは私もそう遠くない将来直面するであろう高齢者介護も同様だ。ペットの殺処分などの問題もある。
出生前診断と中絶問題
安楽死が認められない一方で、出生前診断と人工妊娠中絶は認められている。
人工妊娠中絶には21周までという限定がある。初期中絶(妊娠11週まで)の場合には、搔爬または吸引によって中絶を行う。12週から21週までの中期中絶の場合は、陣痛促進剤を使って無理やり分娩させる。法的には22週未満を「母親に付属したもの」と考え、22週以降を「独立した命」と考える。
搔爬という単語を初めて知ったが、こういった生命倫理の問題はIPS細胞の山中先生が繰り返し問題提起していた課題だ。医療技術はどんどん進むだろう。その時、何を生命とみなし、何はみなさないのか。22週未満の胎児(胎児とは呼ばないのか?)を生命とみなさないなら、重度障害者を生命とみなす理由は何か。
神奈川新聞の石川さんが下記のように語っている通り、私が植松聖を無視できないのは、おそらく本人も意図せずに、日常生活の欺瞞にナイフを突きつけてくるからだ。
同時に、僕自身もすごく試されているというか、植松に問われているような気持ちになったんです。(中略)僕は取材者でありながら、自分の中に潜む差別意識とか蔑視感情とか、そうしたことを試されていると感じながら接見を続けて来ました。
んで
最初に読んだ本で、森達也が「命が平等であるなら出生前診断は認めないのか、という矛盾に植松は合口を突きつけ、答えられない私たちは綺麗事を掲げ直すしかない」と書いていて、全くその通りだと思った。
しかし問題提起は分かるが、この本は話に脈絡がなく、だらだらと一人漫談が続く。Zoomに1時間遅刻したとかどうでもいい。インタビューも取材のメモをつなぎ合わせたような印象で、よく整理されているとは言えない。
はっきり言って仕事が荒い。もう少し出し方を考えてはどうか(余計なお世話だが)。売る。
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