眩しく輝く葉隠の一説
武士道とは死狂い(シグルイ)である。
正気にては大業ならず。
死狂いとなって事に臨む者だけが、勝負の行末が明らかな戦いを、予測不能の領域にまで押し上げることができる。
どうにもできない傷を負った者が、獅子の群れに向かってゆかねばならぬ時、凡庸の者が、才能ある者と競い合うことを決意した時、「葉隠」の一説が眩しく輝いて見えるはずだ。
ここで、凡庸の者とは藤木源之助であり、才能ある者とは伊良子清源である。
山口貴由の漫画「シグルイ」は、この「シグルイ」を描く訳だが、しかし、その結末は壮絶な挫折である。
シグルイの挫折
無口で感情を表に出さないことから愚鈍として親に捨てられた藤木源之助は、剣の腕を上げ、一時は虎眼流の次期当主として目されるまでになる。しかし、天稟の才をもつ美剣士 伊良子清源に破れ、師匠の一人娘である三重もに奪われ、次期当主の地位も失ってしまう。
師匠の妾に手を出した伊良子清源は破門になるが、逆に岩本虎眼を切って名を挙げる。侍の本分であるお家を守ることができなかった源之助は仇討ちを願い出るが、清源に返り討ちにあって左腕を失い、周囲の蔑みに合いながらも、上意によって自刃することも許されない。
つまり、源之助は、左手も、剣の腕も、社会的な地位も、個人的な誇りも、男性としても、全てを失ってしまう。
そして、最後の機会として与えられた駿河城御前試合でも、一度は取り戻した三重を失い、決定的に挫折してしまう。
考えられたもう一つのラスト
ここで誰もが思い描くであろうもう一つのラストの可能性を考えるなら、ラスト清源の首を落とせと命じられた藤木は、忠長の命を拒否するのである。伊良子清源が、三重と契りを結ぶのを拒否したように、である。
みやもさんは、下記のように回答すべきだったとしている。
「忠長様、伊良子は当道者なれど、苦しい境遇を生き抜き、剣の極地まで到達した侍でございました。この誉れ高き武士の誇りを汚すのであれば、ここに集いし大名衆が承知いたしませぬ。忠長様に奉公するであろう浪人衆にも、波紋が広がりましょう」
出典:最後まで隠された究極の「対比構造」とは
伊良子は、藤木の誇りそのものであり、自身の意志をもち、傀儡ではないという証そのものである。しかし、忠長は許さない。藤木は手打ちにされ、三重も後を追って死ぬ。
これが、考えられるもう一つのラストだ。
どうしても欲しいものは、最も大切なものを犠牲にしなければ得られない
おそらく、これが山口が考えていた最初のラストだったのではないか。
なぜなら、原作のストーリーでは、ラストのコマで源之助が(失われたはずの左手で)三重と手を繋いでいるシーンと整合が取れないからだ。
三重が自害したのは、源之助が結局、士(サムライ)であり、三重にとっては傀儡でしかないと見限ったからだ。だから、2人が手を繋いでいるシーンというのはあり得ない。
しかし、このもう一つのラストであれば、源之助はサムライではないが、1人の人間として三重とそれこそあの世で結ばれてもおかしくない。
おそらく、最後のコマは先に決まっていたのだろう。そして、どちらを取るか、サムライとなり三重を失うか、人間としての誇りを守りサムライとしての地位を失うか、最後まで悩んだのではないだろうか。
山口貴由は、なぜシグルイを徹底的に挫折させたのか
では、なぜ山口は、このような悲惨なラストを藤木に、三重に、伊良子に与えたのか。
それは、悲惨だからだ。残酷だからだ。
シグルイ。源之助が、全てを失い、正気すら失った末に、手に入れたサムライという立場に何の意味があるだろう。その後、藤木が武家社会に馴染んでいくことなど到底想像できない。
「シグルイ」は山口が南條から時を超えて受け取り、全力で育て上げる華である。いかなる形の華が咲くにせよ、その華の色は、あの時山口を一瞬で魅了した「駿河城御前試合」のものと寸分変わらぬ、深く真っ赤な血の色に違いない。
私は、シグルイ以上に残酷な漫画を知らない。
羨望、嫉妬、怨み、屈辱。強烈な感情が迸り、渾然となって狂い咲く、深く真っ赤な血の色の華、それにふさわしい残酷すぎる傑作だと思う。
2度読む価値がある
最初にシグルイを知ったのは、冨樫義博がハンターハンターの単行本のあとがきで言及していたからだ。
一度読んで売り、また買って読んだ。私は、一度売った漫画を買うことはほとんどないが、それだけの価値がある。
ぜひ、『チャンピオンRED』 2010年10月号「シグルイ」完結記念山口貴由ロングインタビューを読んでみたい。
追記 なぜ藤木は最後に伊良子に勝てたか
上記は「なぜ藤木は敗れたか」についてだが、なぜ藤木は最後に伊良子に勝てたのだろうか。
直接的には、伊良子の目となっていた いく に刀を投げ、目を閉じた一瞬に切り込んだ訳だが、その後、鍔迫り合いになった時勝てたのはなぜだろうか。
答えを言うと、それは三重がいたからだ。
仇討ちのとき、伊良子には いく がいたが、藤木には三重がいなかった。正確に言うと三重に恋愛感情はなかった。信頼を勝ち得た、と言う表現はあるが、伊良子が憎い一心であり個人的なものではない。
それが御前試合の前は違う。伊良子憎しだけでなく、個人的な恋愛感情であることは明らかだ。全てを失うだけでは足りない。女がいなければならない。それがシグルイのもう一つの答えである。
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