認知的不協和の全否定。「すっぱいぶどう」は甘いという現実を突きつけてくる(氷風のクルッカ、柳内たくみ)

読書

はいこんにちは。

今回は『氷風のクルッカ』ですね。登場人物であるシモ・ヘイヘは実在するフィンランドの軍人で、冬戦争といわれる第二次大戦中のフィンランドとソ連の戦争で活躍した狙撃兵ですが、この本は名前が同じというだけで完全にフィクションです。フィンランドもソ連も出てきません。そして、主人公のクルッカというキャラクターも架空のものになっています。

自分との距離が近過ぎる(こっ恥ずかしいと感じる理由)

私はラノベを初めて読んだのですが、「こっ恥ずかしい」という感覚がありました。そして、なぜ恥ずかしいのかを考えると、主人公や登場人物達と自分との距離が「遠すぎるから」ではなく、その逆に「近すぎる」からであるように思います。

人類普遍の願望(ラノベ的特徴)

『氷風のクルッカ』からいくつかラノベに共通しそうな特徴を抜き出してみます。

1つ目は、能力的に優れているというのがあります。シモ・ヘイヘもクルッカも狙撃の名手として敵を倒して無双します。2つ目はコミュニティ内での地位です。シモ・ヘイヘもクルッカも優秀な狙撃手として軍隊の内部で信頼されていて人望があります。3つ目は、異性から好かれるっていうところですね。この小説で言えばシモ・ヘイヘがクルッカから好かれるという構図になっています。その意味で、主人公はクルッカですが、読者が自身を重ねるのはシモ・ヘイヘの方でしょう。

「すっぱいぶどう」の全否定

こういった願望は誰にでもあるので、現実にそういうものを手に入れようと頑張るわけです。特殊能力が欲しければ勉強し、コミュニティから信頼を得たければ貢献し、異性から好かれたければメンズコーチの動画を見る訳です。

ですが、それが手に入らないことを知ると、そういった願望自体をくだらないものとして否定するようになります。これは、認知的不協和と呼ばれていて、理想と現実の食い違いが原因で発生する不快なストレスを解消するために、「認知」を変えようとする心理です。「手の届かない高いところにあるぶどうはすっぱい」と考える、いわゆる「すっぱいぶどう」理論です。
これ自体はよくある現象です。

ところが、この『氷風のクルッカ』は、そうやって否定した願望を、「お前は本当はこういうのが好きなんだろ?酸っぱいと思いたいだけで、ぶどうが甘いことを知っているだろう?」と、火の玉ストレートを投げ込んでくるわけです。なぜ恥ずかしいと感じたのか?の理由を考えると、どうもそういうところにありそうでした。その意味ではかなり容赦のない小説でした。

認知的不協和の受容

認知的不協和に直面したとき、認知の方を変更しようという心理は、多かれ少なかれ誰にでもあるように思います。どんな強者であっても、現実を全て自分の願望と一致させることは不可能だからです。

ですが、それも程度の問題で、過度に認知を歪め、自己正当化を重ねることは、中長期的によい結果をもたらすとは思えません。「ぶどうは甘い。しかし、私には届かない。」。そういった矛盾を無理に解消しようとするのではなく、理想と現実の齟齬を受け入れて不快に耐える。そのとき、「こういう作品もいいよね」と純粋に楽しめるときが来るかもしれません。そんなときが本当に来るのかは怪しいですが。

なお、「甘いぶどうの疑似体験」として楽しむ方法もあろうかと思いますし、それはそれで否定されるべきものではありませんが、私はそういう楽しみ方をしたいとは思えませんでした。

本日は以上です。

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