ラヂオの時間をアマプラで見直した。学生の頃は、コメディ要素に目が行ったが、サラリーマンになってから見ると全く違ったものが見えてくる。
プロジェクトの中で自分の意思を通す難しさ
2024年1月29日、セクシー田中さんの著者である芦原妃名子氏が自殺し亡くなった。その理由の一つには、原作のドラマ化に当たって、オリジナルからの変更についての関係者との意見の食い違いがあったとされる。
およそサラリーマンを経験した人なら、プロジェクトを進める上での関係者間の意見の衝突に悩んだことのない人はいないだろう。ネットでは、「事前に契約で縛っておけばよかった」という論調もあるし、確かにその通りではあるが、業界の慣行として契約を取り交わさないというから、著者だけで対抗するのが難しい事は想像に難くない。
芦原氏の訃報に、三谷幸喜は次のようにコメントしている。
もう1個いいですか?僕の話になりますけど、僕も今まで長い間仕事してきて、もうこんな仕事やめちゃってやめようとか、なんでこんな思いをしなきゃいけないんだ、なんてみんなわかってくれないんだ、なんで僕の作ったものを勝手イジってしまうんだと思ったことも何度もあるし。もう、本当に全部投げ捨てたいと思うし、死にたいと思ったことって実はあるんですよね。のほほんと書いてるように見えるかもしれないですけれども。
(出典:三谷幸喜『セクシー田中さん』芦原さん訃報に沈痛 脚色の難しさ・原作者の思い・自身の苦悩も「全部投げ捨てたいと思う」【コメントほぼ全文】)
多くの人間が関与するプロジェクトの中で、自分の意思を通すことの難しさは、三谷幸喜でも痛感するところなのだ。よほどの大御所でもない限り、この問題を避けて通ることは難しい。
プロデューサーという調整役
ここで三谷幸喜がいう「勝手にいじられてしまう」経験は、「ラヂオの時間」に描かれている。
この映画は、ラジオドラマの生放送の現場を描くわけだが、関係者の我がままから、脚本はオリジナルから大きく外れ、あらぬ方向に向かいながらも何とか作品として成立させようと奔走するドタバタコメディである。
この関係者の我がままに振り回されるのが、プロデューサーの牛島(西村雅彦)である。
牛島は、俳優、上司、ナレーター、スポンサー、脚本家、放送作家、ディレクターなどからの我がままを拒否できずに受け入れ、脚本はずるずるとなし崩し的に崩壊していく。そんな牛島を、部下であるディレクターは「いい作品を作ろうなんて、これっぽっちも思ってない」、「番組が無事終了することと、女のことしか考えていない」と酷評する。
結果責任から逃げない牛島の矜恃
この映画のハイライトは、そんな牛島が、脚本の変更を拒否して放送室に閉じこもる脚本家を説得するシーンだろう。脚本家は、あまりにオリジナルから外れてしまった現状に憤り、自分の名前をクレジットから外すことを要求する。
そんな要求は些細なことである。最後に名前を呼ばなければいいだけであり、脚本の変更や新たな音源の準備なども必要ない。自分の上司も、その要求を受け入れればいいと提案する。これまでの流れから考えれば、牛島はすんなり「分かりました、それで行きましょう」と了解するだろう。
しかし、牛島は、脚本家の要求を拒否するのである。
我々がいつも自分の名前が呼ばれるのを満足して聴いてると思ってるんですか。何もあんただけじゃない。私だって名前を外して欲しいと思うことはある。しかしそうしないのは、私には責任があるからです。どんなにひどい番組でも作ったのは私だ。そこから逃げることはできない。
満足いくもんなんてそう作れるもんじゃない。妥協して、妥協して、自分を殺して作品を作り上げるんです。でもいいですか、我々は信じてる。いつかは満足が行くものができるはずだ、その作品に関わった全ての人と、それを聞いた人全てが満足できるものが。ただ、今回はそうじゃなかった。それだけのことです。
悪いが名前は読み上げますよ、なぜならこれはあんたの作品だからだ、まぎれもない。
これは、映画全体を通して理不尽な要求に応え続けた牛島の、ほとんど唯一の要求である。「妥協して、妥協して、自分を殺して作品を作り上げ」、その「結果に対する責任」を追い続けてきた牛島にとって、この脚本家の要求は一人のプロとして受け入れ難いものだったのだろう。
芦名氏の訃報に三谷幸喜は次のようにコメントしている。
でも、その時僕はやっぱり踏みとどまったんですよ。なんで、踏みとどまったかっていうと、やっぱり僕は書いたものに対して責任があるし、もしかしたらこれから書くものに対しても責任があるし、今書いているものにも責任があるし。たぶん、この先自分が作ったものを楽しんでもらう人たちがいるとするならば、やっぱりその人たちに変な感情で読んでもらいたくないし、見てもらいたくないっていうのはあるから、やっぱり僕は、ここは踏みとどまらなきゃいけないなっていう風に思うんですよね…。踏みとどまってほしかったですね。
(出典:三谷幸喜『セクシー田中さん』芦原さん訃報に沈痛 脚色の難しさ・原作者の思い・自身の苦悩も「全部投げ捨てたいと思う」【コメントほぼ全文】)
花さえ用意できれば、 裏で昼寝していてもいい
「結果に対する責任」について、マイクロソフトのエンジニアである中島聡氏のブログに、ビル・ゲイツの結果を求める姿勢について印象的な記述がある。少し長いが引用する。
たとえばあるパーティーがあるときに、ビル・ゲイツがあなたに花を用意してほしいと頼んだとします。あなたは花屋に電話をし、パーティー会場に花束を届けるように注文します。しかしパーティー当日、花屋から、雪のせいで配達が遅れるという電話が来ます。
あなたは花が遅れるという旨をビル・ゲイツに伝えます。こういうとき、彼は尋常じゃないほど怒ります。その怒りは、人が変わったのではないかと思うほどです。それだけ締め切りまでに仕事を終えることを重視しているのです。
あなたが命じられた任務はパーティーに花を用意することであり、花屋に注文をすることではありません。注文をするだけなら誰にでもできます。あなたは花を用意するために雇われているのです。であれば、いかなる理由があっても花を用意することができなかったのは100%あなたの怠慢であり、責任を負うべきだというのです。(中略)
あなたの任務は花を用意することです。花さえ用意できれば、パーティー会場の裏で昼寝をしていてもいいのです。だからこそ花は絶対に用意しなければならない。花屋に注文をすることは任務の一部でしかありません。言い訳をする人はそこを勘違いしています。
現実として、牛島はかなり仕事のできる人間として評価されるだろう。「エリートとは、組織に対する責任を自覚した人間である。」という言葉があるが、少なくとも牛島は、「結果に対する責任を自覚した人間」であることは明らかだ。
「結果が出ない苦悩」は「結果を自覚した人間の特権」
牛島は「脚本家の名前を読み上げる」という決定に対して、部下であり恋人でもある永井から「本当にこれでいいの?」と問われ硬直する。
脚本はオリジナルから大きく改変され、もはや脚本家の作品とは言えない全く別の作品になってしまっている。牛島も本心では、その点に気づいている。しかし、スポンサーがいる、上司がいる、役者がいる、何より生放送を聴いているリスナーがいる。硬直は一瞬で溶け、自分を殺し、番組の進行に向かうのである。
結果としてディレクターである工藤が強引に脚本家の要求に応える形で収束するが、この部分は工藤が、牛島が一人のプロフェッショナルとして噛み殺した良心を代わりに担ったと言っていいだろう。
番組終了後、牛島はいう。
牛島「俺は時々虚しくなる。何のためにこんなことやってるんだ。みんなに頭下げて、みんなに気を遣って、何がやりたいんだ俺は!」
工藤「自分で言ってたじゃないですか。いつかみんなが満足するものを作るんだって。」
牛島「そんな日が来るのか、本当に。」
牛島のこの「結果が出ない苦悩」は「結果を自覚した人間の特権」といってもいいだろう。それは、苦く、苦しいが、それでも手段に安住する人間には得られないものだ。
今日も小さな戦場で
冨山さんは、「会議と社内調整だけのホワイトカラーが賃金下げている」と言う。
では、牛島の仕事は価値が低いのだろうか?価値がないのだろうか?
私はそうは思わない。人と人とが仕事をする以上、調整はどうしても発生してくる。多様なプレーヤーを巻き込み、利害を調整し、大きなプロジェクトを一つのアウトプットに収斂させて作品として完成させる。調整に安住してはいけない。それは手段なのだから。しかし、調整が無価値なのではない。
私は、大した仕事をしている訳ではない。他人から見れば「そんなこと?」となるだろう。調整という仕事に疲れ嫌になることも度々ある。それでも、ラヂオの時間のトラックドライバー(渡辺健)のように喜んでくれる人が少しくらいいるかも知れない。小さな小さな戦場で、月曜からまた調整に走ろう。結果責任を自覚しつつ。
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