[本の小並感 144]競艇と暴力団 賭けることは生きること。カイジはガイジではない

読書

この本は、下記のニュースを見て知った。

飾り気のない木訥とした語り口が、著者の人間性を伺わせる。八百長の本人でなければ知り得ない生々しい一次情報の匂いがする。嘘はないだろう、そう思わせる説得力がある。

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詳細な八百長の方法は本書や上記の記事ゆずり、気になった点を書いておく。

それはギャンブル中毒者の心理だ。私は全く博打はやらないタチなので例えばカジノ法案についての議論でギャンブル中毒者の議論が出てきても我がこととして認識できない。

しかし、この本を読むと少しその心理が分かる気がする。著者は八百長をやる競艇選手であると同時に重度のギャンブル中毒であり、八百長で入手した金をほぼ全てギャンブルに費やすことになる(全編を通して著者からは金銭欲らしいものをほとんど感じない。)。そして著者は賭けることことは生きることであると言う。

ギャンブラーにとって負けは死だ。死を回避した瞬間、人間は初めて生を感じることができる。俺はその「瞬間」を求め、カネを駆け続けた。俺にとって賭けることは生きることだった。

P157

以前「岳」と言う漫画が「なぜ山に登るのか?」という問いに答えていないと書いたことがある。その答えは夢枕獏の「神々の戴」に書かれているとおりだろう。血が凍り、骨が軋む極限の時間。登山者は「生命の証を掴む」ために危険な山に登るのだ。山もギャンブルも同じなのだ。

私はギャンブルがしたいとは思わないが、カイジがガイジでないことは分かった。展開も文章もうまくて読ませる。普段はなかなか集中できないが、スラスラページが進んだ。2:30くらいで一気に読んだ。

コメント

  1. […] このことは、競艇と暴力団でギャンブル中毒の八百長の犯人が、賭けとは生きることと答えることと似ている。ギャンブルは犯罪ではないが、「生の実感」を得たいのだ。そこでは現在の社会的地位など絶対的な価値は問題にならない。その増減値(Δ値)が重要なのだ。 […]

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