『PERFECT DAYS』を観た。
Perfect Daysという映画を見た。
2時間かけてこれを表現したような内容で、とても良かった… pic.twitter.com/91L9KeXUdt— tomatoism (@tomatoism) January 5, 2025
平山はどこから来たのか
監督のヴィム・ヴェンダースが語っているように、彼は成功したビジネスマンだった。規模の大きなビジネスを取り仕切り、多くの部下がいて、よい家に住み、よい服を着て、豪華な食事と高価な酒を楽しみ、高級車を保有する。そんな生活である。
平山がなぜ今のような生活、ボロアパートに住み、ほとんど何も持たず、トイレ掃除という一般的には底辺と思われる仕事に従事し、ほとんど会話もない。そのような生活になったのかは描かれないが、平山がビジネスマンとしてのDaysに満足していなかったことは明らかだ。彼は意図的にこの生活を選んだのである。
平山が提示する価値観、それを支える過去
平山の過去が重要なのは、それが彼の価値観を相対化するものだからだ。日常を描くだけでは日常の豊かさを認識することはできない。井の中の蛙は、井戸の外に出て初めて、その井戸の狭さ、そして豊かさを知るだろう。それと同じである。
この手の作品、つまり日常の豊かさを再発見しようという作品の中には、それを相対化する非日常の描写が弱い場合が結構ある。例えば、NHKでドラマ化された『団地のふたり』は、典型的なそのケースである。主人公であるノエチとなっちゃんは、日常の豊かさに気づくふりをすることで、「非日常の可能性」や「日常の終わりの悲しみ」から逃げている。
その意味で『PERFECT DAYS』は、平山の過去を、彼の日常を相対化するのに十分な形で演出している。
トリミングされて美化された金持ちの遊び
『PERFECT DAYS』についてのよくある批判が、「平山の生活は美化されており、現実の生活はもっと悲惨。製作者は金持ちで、自分でこのような生活はしないだろう」というものだ。本来製作者が金持ちであるかは作品の価値とは無関係だが、一定の説得力を認めざるを得ない。
私は平山のようなアパートに住んでいたが、ねずみ・ゴキブリ・ダニで大変だった。夏は暑くて寝られず、冬は寒くて部屋でダウンを着ていた。平山の掃除するトイレは大便やゲロで汚れた描写もなく、きれいにトリミングされている(なお、毎朝首都高で通勤しているという点については、ドイツの高速道路が無料という事情もあり、彼に蓄財があるということを示してはいないと思う)。
おっさんポルノ
もう一つの批判が「おっさんポルノ」である。
- 寡黙で必要なことしか話さない → 口べたで非社交的
- 人の嫌がる仕事にやりがいを見出す → それ以外に仕事がない
- 世俗的な欲望から解脱している → 欲望を肯定も実現もできない
- 清貧な生活 → 稼げない、その生活しかできない
平山の生活は、孤独な中年男性が「こうあって欲しい」という願望を無批判に肯定することで観た人の自己満足を満たす安易な道具なのだろうか?
他人という呪縛
マツコは、SNSでいいねを求める風潮を、「他者に価値観を委ねる行為」であり、「自分の価値観に従う」ことの重要性を指摘している。
平山の生活はその意味で、他人の価値観ではなく、自分自身の価値観に従った生活であると言える。例えそれが、美化された金持ちの遊びであり、孤独な中年男性のポルノだとしてもだ。
平山の涙
ここで重要なのは、平山が世俗的な欲望から完全に自由にはなれてないということだ。
若い女性にキスされて喜び、バーのママに恋情を抱く。自分が捨て、そして二度と取り戻すことのできない過去は、苦い記憶と後悔に満ちている。そして、そう遠くない将来、確実に自分に訪れる死を恐れている。姪に「いつでも遊びに来なさい」と言う反面、次に来るとき、自分がまだ生きているという保証はない。「Perfect days」かも知れないが、「Perfect Life」では決してないのだ。
ヴィム・ヴェンダースは平山を僧侶に例えているが、涅槃の境地には程遠い人間的な煩悩に満ちている。田中泯演じるホームレスを眺める平山の目線は「憧れ」だろう。
平山は、ホームレスのように「悟り」を開けないことを自覚している。彼はこれからも彼岸と此岸の間で、過去と未来、自分と他人、欲望と悟りの間で、迷い悩みながら生きていくことになるだろう。このことが、この作品をポルノと一線を画するものにしている(「それすらポルノである」という意見も当然ある。)。
ポルノか否か
この作品がポルノなのかは、観る人によるだろう。自分の現状を無根拠に肯定してくれたと安心するのであれば、それはポルノとして機能している(それが悪いこととは思わないが)。
しかし、そうではなく、自分の現状を批判的に顧みる機会として捉えることもできるだろう。この映画を評価する人の多くは、後者なのではないだろうか。
私は平山ほど割り切れない。人は「消費」ではなく「創造」が必要だ。一般的に言えば、それは「仕事」であり、誰かを笑顔にすることだ。トイレ掃除は立派な仕事である。下痢で切実な誰かを救い、笑顔にしているだろう。立派な「創造」であるとは思う。しかし、私はそこまで割り切れない。What do you want to be remembered for? は、ドラッガーの有名な問いだが、別の形で覚えられたい。
メモ
- 最初の見たとき、前半1時間くらいは自分の事かと思った。掃除という仕事、山採りした盆栽。
- 小さなことにオドオドし、過去の失敗をいつまでも引きずり、失敗を恐れて新しいことに踏み出せない。これは欠点であることは確かだが、裏を返せば、日常の小さなことに喜びを見出し、過去の美しい記憶で白飯3杯食べられ、ルーチンの中にやりがいを見出せるともいえる。
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