緑の小宇宙を輾転する血塗られた小動物たちの行方(宮本輝、道頓堀川のその後)

読書

宮本輝の道頓堀川で、最後、武内と政夫のビリヤードの勝負はどちらが勝ったのだろうか?そして、政夫と邦彦は、その後どうなったのだろうか?作中では明示されないが、推測してみる。

推測

私の推測は、こうである。

  • ビリヤードは、武内が勝つ。政夫はビリヤードから足を洗うが、武内は政夫が将来ビリヤードの店を出せるよう協力する。
  • 邦彦は、道頓堀を離れる。そしてこれまでと全く異なる波乱万丈な人生を送る。

理由

まず武内が勝つ理由は、実力差である。作中、武内は政夫の腕を認めつつも、まだはっきりと実力差があることが示されている。特に最後のゲームでは、武内が完璧にゾーンに入ったとみていいだろう。武内は政夫を圧倒する。

政夫は約束通りビリヤードから足を洗うが、武内は政夫が将来ビリヤードの店を出せるよう協力する。

武内はビリヤードに否定的な意見を持っている。自身は経済的にはビリヤードで成功したが、それはスポーツとは異なるあくまでも博打であり、それが遠因となり鈴子は自分のもとを去った。政夫はビリヤードを正業にしたいと思っているが、武内のこの考えは最後まで変わらない。

俺はなぁ、博打打ちの顔が嫌いや。みんな揃いも揃って独特の顔をしてる。俺もそんな顔をしとったはずや。政夫の顔を見てみィ。だんだんあっちこっちが尖って、貧相な顔つきになってきたやないか。そんな生活をしとったら、なんぼ金を儲けても、人間が貧相になっていく

ビリヤードの店を出せるよう協力するのは、それが武内の考える「父親らしい愛情」であるからだ。政夫にビリヤードの勝負を申し込んだ帰り道、自分の政夫に対する奇妙なこだわり、政夫が幼児だったとはいえ一時的に自分を裏切ったという思いを捨てられず、自身を嘲りながら、「父親らしい愛情」を注いでいくことを考える。だから、勝負には勝つが、政夫が将来ビリヤードの店を出せるよう協力する。

「彼はそんな自分を情けない女々しい人間だとおもった。これからは、政夫に対して父親らしい愛情を注いでやらなくてはらないと考えた」

また、政夫がビリヤードから足を洗うという決定を、比較的あっさりと決断することも論拠の一つである。辞めろとは以前から言われていたが、負けたら足を洗うという重要な決定を、提案されたその場で下すのである。吉岡から武内の話を聞かされていたとはいえ、人生を賭ける決断に少々軽率のように思われる。これは、政夫がわざと家を空け、博打まがいのビリヤードに熱中する理由が、本当はビリヤードに打ち込むのではなく、子供の親に対する反抗であることが見て取れる。

「俺、渡辺耕三にスリークッションで勝ったんやでェ」自慢気な表情のどこかに、甘えかかってくるものもあった。「お前はアホやなぁ・・・」政夫が言ってもらいたがっている言葉を、なぜか素直にすっと口から出しながら、武内は何となく心がなごんでいく思いにひたった。

こう考えると、政夫が約束通りビリヤードから足を洗い、武内は政夫が将来ビリヤードの店を出せるよう協力するという方向性は、一定の説得力があるように思われる。

しかし、この推測は、杉山の易の結果と矛盾している。

運命に抗おうとする物語

武内は都合2回、杉山に易を立ててもらうことになるが、2回目のとき「肉親に波乱万丈な人生を送る人がいる。悩みがあるとしたらその人のことである。ところが、その肉親があなたを本当に幸せにしてくれる人だ。離散の卦がついて廻る。」と言われる。

普通に考えればここでいう「肉親」とは政夫である。作中でも、わざわざ「肉親といえば、武内には政夫しかいなかった。」と記載してされている。武内は、政夫が波乱万丈な人生を送ること、そして自分からはやはり離れていくこかもしれないことを考え、自分に勝ったら政夫のためにビリヤードの店を出すことを提案する。(ちなみに、最初の杉山の易では、政夫は「商売人に向いてる人や」といっている。)

武内は杉山の立てた易を思い出したのだった。たかが易ではないかと思ったが、波乱万丈の人生を送って、自分から離別していくかもしれない政夫を、やはり守ってやりたかった。

政夫がビリヤードをやめ、商売の道を歩むという推測は、この杉山の易と整合していない。

素直に、杉山の易の結果を解釈すれば、武内は政夫に負け、政夫はビリヤードの道を突き進む。武内から離れ、波乱万丈の人生を歩む。これが、素直な解釈だろう。

しかし、道頓堀川は、一言で言えば「運命に抗おうとする物語」と言える。2回目の杉山の易に対して、その的中率を身をもって知っている武内が冷淡というか、大して興味がないように描かれるのは、運命に対して立ち向かっていこうという意思の表れであるともいえる。

また、杉山のいう「ほんとうの幸せ」とは何だろうか。それは、愛する人と共に過ごすということではないか。杉山と鈴子があれほど願っても叶わなかったこと。「杉山も鈴子も、何と可哀そうだったことだろう。」

武内と政夫の実力差、ビリヤードに対する武内の考え(博打)、政夫の甘え、運命に抗おうとする意思、共に過ごす幸せ。それらを総合すると、「ビリヤードは、武内が勝つ。政夫はビリヤードから足を洗うが、武内は政夫が将来ビリヤードの店を出せるよう協力する。」という推測は、成り立つのではないか。

邦彦問題

武内は邦彦を自分のところに引き止めておこうと考えるが、邦彦は道頓堀から離れていきたいと考える。邦彦は、自分の生きる道を決めている政夫にコンプレックスを感じ、政夫が自分の「成れの果て」と形容した、渡辺耕三のようになることを恐れていた。

その瞬間、邦彦は、このすさまじい汚濁と喧騒と色とりどりの電飾板に包まれた巨大な泥溝の淵から、何とかして逃げていきたいと思った。それはおもいのほか困難な仕事に様な気がした。彼は青い炎に目をやった。炎は丸い輪になって踊っていた。幇間のうしろ姿がまた目に浮かんだ。

出ていきたい邦彦、引き止めたい武内。ここでは、両者の運命が真っ向から対立している。

しかし、道頓堀に戻ってきた小太郎を追いかけ、煙草を買ってきてくれるよう頼んだ武内の言葉を、「聞こえなかったはずはないのに、邦彦は武内の言葉を無視して法善寺への細道を歩いて行った。」ことは、邦彦が道頓堀を出ることを示唆している。

杉山の言う「肉親」とは、「赤の他人の邦彦に対しても、いま武内は自分の息子のような愛情を感じるのだった」とある通り、邦彦のことを指す。武内のもとに戻るのは政夫であり、武内のもとを離れ、波乱万丈な人生を送るのは邦彦の方ではないだろうか。

いつか、知恩院の境内で

書いていく過程でかなり迷った。もしかしたら杉山の易に沿う説(政夫がビリヤードを続ける説)が素直かもしれない。

また、道頓堀川が、「運命に抗おうとする物語」であると気づいた時、ビリヤードの勝負にどちらが勝ったかという結果には、あまり意味がないように思えてきたのも正直なところだ。

薄暗い地下室の中で、玉台に敷きつめられたフェルトの緑色が強く目に沁みた。玉と玉のぶつかり合う音が、玉台のまわりを歩き廻る二人の足音に重なって、大きく小さく響き合っていた。それは曇り空の下に広がる長方形の暗い草原の中から、どうにかして逃げ出そうとあがいている血塗られた小動物のように見えた。

小動物たちは、それぞれがそれぞれの形で、人生を切り拓こうとするだろう。

しかし、彼らの目指すところは、共通点があるように思われる。道頓堀川に住む人々が相貌の奥に携えている「貧しさ」。そして、武内が一瞬とはいえ、その貧しさから自由になれたのは、鈴子と政夫とで知恩院の境内を訪れたときではないだろうか。運命に翻弄される小さな切ない生命体は、いつか桜の咲く知恩院の境内に還ることができるだろうか。

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